クラシックカーで楽しいドライブ
勢ぞろいって言ったって1枚じゃね。Salmsonサムソン、 S4-61の写真2枚と、他の車の写真を選んで見ました。たくさん撮ったように思っても、あまりいい写真がなかった・・・
車の写真を撮るには、日差しがきつすぎました。曇りの日が撮影にはいいそうです。
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勢ぞろいって言ったって1枚じゃね。Salmsonサムソン、 S4-61の写真2枚と、他の車の写真を選んで見ました。たくさん撮ったように思っても、あまりいい写真がなかった・・・
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写真の車はSalmsonサムソン、 S4-61、1948年製。流れるような曲線が優雅である。サムソンはもう車をつくっていないので欲しくてもなかなか手に入らないそうだ。まったく予定外だったが、この車にのせてもらってクラシックカーを愛する人たちとNantesナント郊外でまる一日をすごした。
知り合いの家に2泊させてもらい、朝Rennesレンヌに帰るつもりで、列車のチケットを買っていた。その家の中はアンティークでいっぱいだ。高価なものという意味ではない。おじいさんからもらったものだったり、数十年前の空き缶だったりするのだが、ずっと大切に手入れしながら今でも日常生活で使用しているのだ。
朝起きると、28日から夏時間で1時間はやくなったので、待ち合わせに遅れたということだった。どこへ行くのか尋ねると、Nostalgie des vieux volantsという名前のクラブにはいっていて、たまにメンバーが集まって車の話をするのだという。
「いい天気だから一緒にドライブに行きましょう」という言葉に甘えて、ご夫婦と一緒に出発した。ちょうど落葉樹が芽吹きはじめ、のんびりと牛、羊、馬などが草を食んでいる。田園風景は美しく、見飽きることがない。待ち合わせ場所はBlainブランという町。お城(12世紀にブルターニュ公が建てた)が見える運河のほとりだった。そこには40台のクラシックカーが並んでいた。見たこともない車がいっぱいでまるでタイムスリップしたかのようだった。
5キロほど離れたle Gâvreル・ガーブルというところにある Maison de la forêt du Gâvre森の美術館まで一列になって進む。住民たちが道にでて、私たちにむかって手を振っている。運転する人も見ている人もみんな笑顔だ。この森は中世にブルターニュ貴族たちが好んで狩りをした場所だ。美術館は1階が森や木の説明、2,3階が、民族資料館。ちょうど森の動物たちの写真展が開催されていた。
役場の2階でそれぞれが持ち寄った昼食を食べ、ブランに戻った。Le musée des Arts et Traditions du pays blinois伝統工芸美術館はキリスト誕生をあらわしたCrècheクレッシュやお菓子の中にはいっているFèveフェーブが世界中から集められているとてもユニークなもの。19世紀の学校、薬局、郵便局などが再現された部屋も楽しかった。
集まった人は職業も年齢もさまざまだが、車の話を始めるときりがない。私にはさっぱりわからない専門的な言葉がゆきかっている。「自分で車の整備ができないと、ドライブには行けない。途中で故障することなんて当たり前」だというから、みんな真剣に情報交換している。たくさんの笑顔に囲まれ、とても幸せだった。
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フランス革命から214年たった。毎年7月14日革命記念日には、パリのシャンゼリゼで華やかなパレードが行われ、世界中から観光客が訪れる。だが一方でこの日を祝わないフランス人もいるのである。
革命から4年後の1793年、ロワール川南部のヴァンデ一帯で反革命の狼煙があがり「カソリック王党軍」が結成された。それにブルターニュやノルマンディーの「ふくろう党」と呼ばれる蜂起軍も加わり、各地で激戦を繰り広げるが、年内に共和国軍にほぼ制圧され以後はゲリラ戦が主流になる。いわゆる「ヴァンデ戦争」である。
それでも共和国は94年「地獄部隊」を送りこみ、フランスで語ることがタブー視されているヴァンデ一帯の大虐殺が起きた。無抵抗な住民たちの死体が累々と横たわる。女性や幼子も容赦なく殺された。人家にも畑にも火が放たれ村々は消滅した。この戦争全体の死亡者はヴァンデ側三十万人、共和国側十万人と推定されている。
3月27日、Nantesナントから南西50キロに位置するNoirmoutierノワールムチエ島を訪れた。ここでは、1500~2000人が銃殺されている。Souvenir Vendéen ( ヴァンデの歴史を語り継ぐ会 ) の総会と、引き続いて島内のゆかりの地を訪ね、鎮魂の祈りをささげるためである。城内の博物館は城壁修復のため現在休館中なのだが、特別に見学できた。またすぐ側にある教会と、犠牲者の骨が納められた礼拝堂にも立ち寄った。礼拝堂は一般公開されていないはずなので、あらかじめ観光案内所に問い合わせてほしい。
あるご夫婦が先祖のことを話してくれた。この戦いでご主人は3人、奥さんは23人を虐殺されたという。どれほど時間がたとうと忘れられない悲しみがある。フランス人でありながら、祝日を祝えない。それでもフランス人として暮らしてゆくのだ。内戦ゆえの悲劇である。
関連エントリー
ふくろう党パリ集結
ダヴィッド・ダンジェのボンシャン侯爵像
ナント溺死刑の追悼式典と講演会
参考資料
ブルターニュへの旅―フランス文化の基層を求めて 田辺 保 著
朝日選書 1992
(ブルターニュ関連書籍 その1、3月18日参照のこと。名前をあげたボンシャン侯爵は「カトリック王党軍」の高潔な司令官で死の直前に5000人の捕虜を解放した)
ヴァンデ戦争―フランス革命を問い直す 森山 軍治朗 著
筑摩書房 1996
日本語で書かれた唯一の専門書。いくつか疑問もあるがこまかいことなのでここでは省略する。何しろ公文書の多くが焼かれてしまったので、フランス語の文献でも食い違いが見られるからだ。
フランス革命の代償 ルネ・セディヨ 草思社 1991 フランス革命から2世紀がたち、改めて革命の損得を考察する
GLORIA VICTIS 友人のホームページ。私が知りうる限り「ヴァンデ戦争」に最も詳しい日本人。
私はすでにエッセイとして、ヴァンデ関連の逸話を新聞等の媒体でいくつか発表しているが、これらを加筆して出版することも考えている。実現すればお知らせしたい。
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2時間以上時間をかけて、あることを書いたのですが、送信しようとして、貼り付けたリンクを見たら、もとの記事にはもう戻れなかった。消えてしまった・・・
たぶん今日はショックから立ち直れないので、また明日。もっといいものが書けたらいいんだけれど・・・
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青々とした芝生の上に無数の花びらが舞い落ちています。見上げるような木蓮の巨木です。写真をクリックすれば大きくなります。ここはNantes(ナント)駅前にある植物園です。しだれ桜や真っ白な辛夷のような花も満開でした。ナントにはブルターニュ公のお城があるのですが、今はロワール・アトランティック地方に編入されています。以前名前を紹介したアンヌ・ドゥ・ブルターニュ(1477-1514)が生まれたところです。
RennesレンヌからRedonルドンで列車を乗り換え、約1時間半で着きます。直行もあるのですが、回数が少ないのです。土曜日に日帰りで行ったのですが、乗り換え時にちょっとしたハプニングがありました。列車の座席にミニ辞書を置き忘れたのです。幸いその列車はルドンが終着でしたから、ナントについてすぐ駅員に連絡をとってもらいました。まだ見つかってないということでした。運転手をしている友達がいるので、もしあったら、その人に渡してくれるよう頼んだのです。
Souvenir Vendéen(ヴァンデの歴史を語り継ぐ会)の人が駅まで向かえに来てくれていました。みんなで昼食を食べ、教会でのミサ、その後講演を聞きました。さて帰ろうとすると帰りのチケットがないのです。荷物はちいさなバックだけ。途中「何時に帰るの」と聞かれた時に確認したのですが、確かにその時はあったのです。こんなことははじめてでした。ちょっと肩を落として、駅までいく途中で、植物園を通ったのです。美しい花が咲き乱れています。まさに春爛漫。憂鬱な気分も吹き飛んでしまいました。
帰りもまたルドンで乗り換えでした。時間が10分あったので、あわてて窓口まで行き、忘れ物がみつかったかどうか、聞きました。にっこり笑った男性は「確か机の上で見たけれど、今はないぞ」と言います。「もう出発しちゃう。早く~~」と喜びを隠せない私。「まだ5分あるから大丈夫だよ。おまえ見たか」と同僚に尋ねます。「これか」。「それそれ。ありがとう。親切は忘れないから」と急いで列車に乗りました。
帰ってから運転手をしている友達に電話しました。「今度ルドンに行ったら、みんなにありがとうって言ってね」と伝えました。マドリッドのテロ以降、列車内の荷物置き場は閉鎖されているし、不審なものが残されていないか厳重にチェックしているのだそうです。もう10年くらい前ですが、飛行機に乗る時にカメラのフィルムを出して見せるように言われたことがあります。カメラの中にプラスティク爆弾を仕組むことがあるからという説明でした。そんなふうに爆弾を使うのかと驚いたのでよく覚えています。
旅行シーズンにはスーツケースや大型のバックを持った人でいっぱいになるのに荷物置き場がないと大変です。「そうなると、スーツケースの上に座るしかない」と友達に言われ、「それは気がつかなかった」と笑ったのですが、本当は笑い事ではありません。何も起こらないよう祈るしかありません。
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デザイン変更してみました。どこが変わったか、わかるかな?
タイトルバックは私が撮った海の写真です。
サブタイトルがどうしても、左によるのはナゼなんだろう・・・
やっとリンクが貼り付けられるようになったし・・・
ほんとはもう少し手を加えたいのですが、今日は力つきました。
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今すぐブルターニュのことを知りたいという人のために、よりすぐりの本を紹介します。
フランス・ロマネスク 饗庭孝男 著
山川出版社 1999
ご本人が撮影した写真や中世の写本がふんだんに盛り込まれた見て楽しめる本。ブルターニュの5つのロマネスク教会が紹介されています。
「ロックトゥデイ教会」はブルターニュのロマネスク教会の中で、最も保存状態がよいものです。ここには猫の浮彫がいくつかあります。他ではみたことがありません。いろいろな建築家や教会関係者などに聞いてみましたが、やはり珍しい例のようです。他の教会で猫の浮彫を見たという方、または何か情報をお持ちの方、どうか教えてください。
「ペロス=ギレック教会」の「アーサー王を助けにきた聖エフランが龍と戦う姿」は、教会の外の入り口にあります。私は教会の中ばかり探して見つけられませんでした。3度目の訪問でやっと見つけた苦い思い出があるのです。探しあてた時は、身体じゅうの力が抜けてしまいました・・・
「ダウラス教会」フランス語の記述が違います。ここは修道院付き教会なのでAbbatiale de Daoulasです。Abbaye Daoulasダウラス修道院の中にあります。毒草も植えられている薬草園がありますのでぜひ散策してください。
ここではさまざまな企画展示が行われており、2002年12月7日から2003年3月9日まで、Fées, elfes, dragons autres créatures des royaumes de féerie が開催されました。世界各地の妖精に関する絵画、オブジェ、映画、書籍などが紹介されていました。日本からも福島県金山町にある妖精美術館や井村君江さん個人所蔵の絵画が展示され、妖精学の創始者である井村君江さんも現地においでになりました。今はヴァイキング展を開催中です。なお、近くのPlougastel-Daoulasにもカルヴェールの有名な教会がありますので、こちらも寄られるとよいでしょう。
幻想の都市―ヨーロッパ文化の象徴的空間 饗庭孝男 著
講談社学術文庫 1997
「パリの一隅から」という部分にブルターニュの記述があります。これは1987年11月号の「新潮」に載ったものですが、今と状況が少し異なります。貧困にあえぎ、「人買い市」がたっていたそんな暗いイメージは塗りかえられ、ブルターニュはいまや、訪ねたい、住みたいところとなり、パリから人々が移住してくるようになったのです。ケルトの時代から現代までブルターニュのさまざまな横顔を持つブルターニュの魅力を垣間見ることができるでしょう。
饗庭孝男さんの著書はほかにもいろいろ持っていますが、ヨーロッパの歴史、文化を実に明晰に解き明かしてくれます。お会いしたいとずっと思い続けているのですが、まだ実現しておりません。いつか夢が叶うとよいのですが・・・
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今すぐブルターニュのことを知りたいという人のために、よりすぐりの本を紹介します。
ブルターニュへの旅―フランス文化の基層を求めて 田辺 保 著
朝日選書 1992
とにかく一冊と言われたら、迷わず推薦するのがこの本。読みおわったら、きっとブルターニュが好きになるはずです。ブルターニュについての基本は網羅されています。
注意
本のなかで一箇所だけ誤りがあります。64ページのボンシャン像をつくったのは、「画家ダヴィッド・ダンジェの父」と書かれていますが、ダヴィッド・ダンジェは、パリのパンテノン正面のペディメント浮彫もつくった19世紀フランスを代表する彫刻家のひとりです。また、「ボンシャン侯爵像」をつくったのは、父親ではなく、ダヴィッド・ダンジェです。何度もこの像を見るために足を運んでいますが、まさに傑作だと思います。
フランス 巡礼の旅 田辺 保 著
朝日選書 2000
ブルターニュの巡礼についての記述とモン・サン・ミッシェルが紹介されています。世界遺産モン・サン・ミッシェルは正確にはノルマンディにあるのですが、パリからレンヌ経由で観光するのが一般的です。田辺保さんは、モン・サン・ミッシェルのガイドが「自分よりフランスのことをよく知っている」と舌をまくほどなのですよ。
ケルトの森・ブロセリアンド 田辺 保 著
青土社 1998
アーサー王伝説の残る不思議の森です。今では観光地化して、少々趣きに欠けるのですが、アーサー王のファンなら是非一度お越しください。レンヌから車で30分ほど行くとブロセリアンドの森に着きます。森の中心まではレンヌからバスがでていて、簡単に行けるのですが、それからが、交通手段はありません。私は現地で自転車をレンタルしたことがあるのですが、見どころはずいぶん離れているので、自転車ですべて周ろうとすると最低1週間はかかります。また看板も壊れていたりして、専門家と一緒に行かないと道に迷います。日本人でこの森を道案内できるほど熟知している物好きは、私ぐらいでしょうが・・・
今日は田辺保さんの作品を紹介させていただきました。現在新たにブルターニュの本を執筆されているそうです。とても楽しみです。次回は饗庭孝男さんの著書を紹介したいと思います。
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少しずつ、日が長くなってきました。今日は外へでても、寒くありませんでした。街路樹にレンギョウ、ヤマブキなどアジア原産の木も植えられているのですが、黄色い花が咲いています。レンギョウは中国では「春を告げる花」といわれているそうです。
あっという間にこのページを始めてから1ヶ月がたちました。いつもはずっとレンヌにいるのですが、この1ヶ月のうち、10日間、パリに行っておりましたので、あまり更新できませんでした。それなのに、たくさんの方が見てくださりとても感謝しております。振り返ってみますと、ブルターニュのことはあまり紹介できていませんね・・・ 感想を気楽に書き込んでください。お待ちしています。
今日はちょっとうれしかったことをお話してみようと思います。レンヌはメトロ(地下鉄)とバスが共通で、1枚のチケットで1時間乗り放題なんです。私がメトロの入り口でチケットを取り出し刻印しようとしていると、女の人が「待って~~」と叫びながら走ってきました。その人は「私のをあげる」と使用済みのをくれたのです。「ありがとうございます」とお礼を言って、メトロにのりました。
その日の帰りぎわに私がメトロを降りると、ひとりの男性が一生懸命チケットを探しています。「私のを使ってください。まだ大丈夫ですから」と男性に渡しました。その人は何度も「なんて親切なんだ。ありがとう」と繰り返してお礼を言ってくれます。「今日の朝、私もいただいたんです。それがうれしかったから」と答えました。このような触れ合いがたくさんあります。いつも見ず知らずの人の優しさにはげまされています。
私の机の前には「とびっきりの笑顔」を貼ってあります。2月8日の読売新聞に掲載された宮本順三さんの追悼記事のコピーです。グリコのおまけを作り続けていた人です。笑えないときもあります。でも順三さんの屈託のない笑顔を毎日眺めながら、自分の「しかめっ面」を反省するわけです。
最後に写真の説明です。これは年に数度レンヌに巡回してくる回転木馬です。クリックすると写真が大きくなりますので、じっくり観察してください。普通は馬なのに、これは全く違います。しかもすべての動物やオブジェが動くのです。わたしのお気に入りは、タツノオトシゴです。とってもよくできているので、いつも前を通る度、見とれてしまいます。今度はいつやってくるのか、楽しみです。
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フランス国内では、ブルターニュ、コルシカ、バスクの3地域が独立を求めて、闘争を続けてきた。ブルターニュとコルシカはフランスの地図にはっきり記載されているが、バスクの地名はどこにもない。バスク地方はフランスとスペインにまたがっているのだが、人口300万人のうち、9割近くがスペイン側に住んでいる。
ちょうど先週末、「ブルターニュ公妃アンヌ・ドゥ・ブルターニュ(1477-1514)」についての講演を聞くため、パリに行っていた。そこでバスク出身の友人と、ブルターニュやバスクの文化の独自性について話したところだった。ポンピドゥーセンターで開催されている「JOAN MIRO La Naissance du Mondeミロ・世界の誕生」も見てきた。(3月3日から6月28日まで)。ミロはバルセロナ出身の画家でパリに長く住んでいた。いつかバスクを訪ねてみたいと思っていたところだった。
「バスク祖国と自由」は1959年、フランコ独裁政権時代に誕生した。住民投票によってバスクが自治州となったのは、1979年のことである。今回のマドリッドのテロで「バスク祖国と自由」の名前がとりざたされているのは、これまでに数々の流血事件が起きているからだ。そして、民主主義を守るという理由で、昨年スペイン政府は自主独立を目指す「バタスナ」の非合法化を決定した。バスク語で書かれた唯一の日刊紙「エグンカリア紙」も発禁処分となった。これらの措置に対しては「バスクのアイデンティティーを侵害する」と激しい抗議の声があがったのは、いうまでもない。
この詳細については、フランスの「ル・モンド」の関連会社が編集する国際月刊紙「ル・モンド・ディプロマティーク」日本語版に掲載されている「バスク地方を支配する二重の暴力」2003年5月号をご覧いただきたい。
テレビではこのバスク地方でも人々が町にでて、テロ追悼のため祈っている姿が映し出されていた。これまでのいきさつからすれば、「スペイン」のために過去のわだかまりをすてるなど、考えられないことだった。「バスク祖国と自由」も関係ないとコメントしている。それほど衝撃的な出来事だったのだ。だが、「バスク祖国と自由」の一部のメンバーがアルカイダに協力しているという情報もある。非合法化で彼らを心理的に追い込んだ政府にも責任があるという意見もでている。
このテロは、スペインだけでなく、ヨーロッパ中を震撼させた。14日付けの「ル・モンド」のトップ記事は「ヨーロッパはアルカイダの脅威に直面」というタイトルなのだ。
テロという許されざる行動で200人もの尊い命が犠牲となった。まだ21世紀ははじまったばかりだというのに、あまりに悲しいことが多すぎる。もう一度言う。力のよる弾圧や報復は、憎しみを増長させるだけで、解決には結びつかない。互いに歩みよるしか道はない。いますぐ隣人の手をとり、話し合いをはじめよう。もう血の惨劇は見たくない。
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惨劇が再び起きた。私がマドリッドで起きたテロのことを知ったのは11日、木曜日夜だった。レンヌでは、この日昼すぎから気温が急激にさがって、雪が舞っていた。家路を急ぐメトロ(地下鉄)の構内に張り紙があったのだ。「午後6時から市役所前広場でマドリッドのattentatアタンタ(テロ)犠牲者を追悼する」という内容であった。いったい何が起きたのか・・・帰ってテレビをつけると、「エスパーニャ」と叫ぶ声が聞こえてきた。爆破された列車。けが人の語る生々しい事故の様子。ニュースの中でsolidalitéソリダリテという言葉が幾度となく繰りかえされる。「連帯感」という意味である。
それからずっとテレビを見ていた。マドリッド市内をうめつくした200万人の追討集会には、各国の代表が参加した。フランスからは、ラファラン首相とパリ市長がかけつけた。レンヌ、トゥルーズ、パリなどフランス国内だけでなく、ヨーロッパじゅうが、喪に服している。2日がすぎ、葬儀が行われているが、まだ身元確認が出来ない遺体が数十体あるという。「娘がまだ帰ってこない」とうなだれる老夫婦。「もう殺人はたくさん」と悲痛な叫びがいつまでも耳に残る。
土曜日の午後、一見するとレンヌの街は普段どおりである。目抜き通りは買い物客で賑わっている。だが市役所と旧高等法院には弔意を示す半旗がかかげられていた。写真は市役所である。拡大してご覧いただきたい。少し見づらいが、電灯の支柱には、黒いリボンの張り紙が、時計台の下に半旗が見える。特別の措置である。ここで昨日、スペイン人学生の呼びかけで、数百人が手をつなぎ平和を祈ったそうである。
テロ行為は、バスク地方の分離独立を求める非合法組織「バスク祖国と自由」の犯行と考えられたが、アルカイダが関与したという疑いが濃厚になってきている。フランスはスペインの陸続きの隣国であり、このテロは決して他人事ではない。この2日でいっきに緊張が高まっている。あらゆる公共交通機関へのテロが想定されうるからだ。いたるところ警官だらけである。昨年クリスマスには、パリやロンドン発のアメリカ行きの飛行機がテロを警戒してキャンセルになったが、列車もバスもおちおち乗れなくなってしまう。
飛行機の手荷物検査はますます厳しくなるだろう。また日常でも、美術館、コンサート会場などに入る時は必ずバックの中身まで調べられる。それからサッカー観戦にペットボトル入りの水を持っていたら、受付でキャップを捨てられ、困ったことがある。飲んでみせても、返してくれないのだから、どうしようもない。(アルコールを持ち込んで会場内で火をつける不届きものがいるため)。テレビではオリンピックを控えたギリシャで、テロに対しどのような訓練を行っているかが、紹介されていた。
人類の歴史は戦いの歴史といっても過言ではない。突然、家族を失った人たちの悲しみは察するに余りある。だが、報復は新たな犠牲者と深い憎しみを生むだけだ。さきほどモロッコ人の友人から電話があった。イスラム教徒であっても友は友である。私は誰も殺したくないし、家族や友人を殺されたくない。もういちど、平和について考えよう。共に手をたずさえて生きることを、本気で考えようではないか。
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いつか本物を見たいと思っている写本がある。アイルランドのトリニティ・カレッジの図書館に保存されている「ケルズの書」である。マタイ伝、マルコ伝、ルカ伝、ヨハネ伝と4冊の福音書が収められている。製作者は9 世紀初めにヴァイキングの襲来でアイオーナ(スコットランド西方の島)からケルズ(ダブリンの北西)へ避難してきた修道僧であると伝えられている。ケルズの僧院で作られたので、The Book of Kellsと呼ばれるようになった。
vellum (べラム)と呼ばれる子牛皮紙(一般的には子牛の皮を水に浸して毛や不純物を全て取り払って、乾燥させたもの)の上にケルト特有の渦巻き模様や人間、動物などが描かれている。最も特徴的なものは渦巻き模様で、トランペット・パターンと呼ばれる「反転しねじれながら無限に連続・増殖する形」が用いられている。
もちろん当時は印刷技術が発明されていなかったので、すべて手書きである。修道士たちが、一字ずつ書き写したのである。もう7-8年前だろうか。はっきりとした時期は覚えていないのだが、慶應義塾大学の図書館内を歩いていると、この「ケルズの書」を眺めている人がいたのである。もちろん印刷された複製本であるが、その当時は国会図書館にも所蔵されていなかった。
お話を伺うと、そのご婦人は、この本を写本しているというのである。しかも、修道士がかつて行っていたようにべラムを買い求め、当時のインクの材料を吟味し、この複雑な文様を毎日こつこつ描いているというではないか。あちこちの図書館を巡り歩いてやっと慶應にあることがわかったが、簡単に閲覧はできないので、特別許可をもらい、やっと見ることができたのだという。その情熱に心を打たれた。
私も恩恵にあずかって、緊張しながら、この憧れの写本のページをめくってみた。印刷本だが、虫が食った穴まで開けられていてとてもリアルであった。真っ白な皮表紙で装丁されていたことを覚えている。アイルランドまで出かけても、ショーケースの中の開かれたページしか見ることが出来ないので、私にとっても貴重な体験であった。この方にはご住所をうかがい、不定期に連絡させていただいているが、今でも続けていらっしゃるそうだ。
フランスにおける写本の伝統および慶應義塾大学の稀覯書(歴史的価値のある古い書物)のデジタル化については、また日を改めて書いてみたいと思う。
< 参考資料 >
VHSビデオNTSC(日本、米国、カナダ向け)
Book of Kells: The Work of Angels
The Book of Kells (British Library Studies in Medieval Culture) Carol A. Farr
British Library Publishing Division 1997
The Book of Kells
Collins and Brown 1998
ケルズの書Bernard Meehan 著 鶴岡 真弓 訳 創元社 2002
追加情報
2006年にアイルランドに行って実物を見ることができた。その感想はトリニティカレッジとソルボンヌで。
2013年、ケルズの書がオンラインで無料公開された。iPad appでも購入可。
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「いったい何処から手をつけたらいいんだ。残っているのは外壁だけだというのに」。直ちにl’association pour la renaissance du Palais ( Arp 旧高等法院再生プロジェクト ) がスタートしたものの、誰もが心のなかでつぶやいていた。あたりに焦げ臭いにおいを放ちながら、まだ煙にくすぶっている、黒い巨大な塊。それが、あの華麗な建物の変わり果てた姿だった。
失ったものはあまりに大きかった。図書館に保管されていた希少価値のある古文書のほとんどが灰となった。焼け残った木屑としかいいようのないような数千の断片がレンヌの町に急ごしらえされたアトリエに次々と運びこまれた。どうしても、移動させられないものもあった。17世紀後半の粋を集めて作られた優美な装飾をほどこした飾り天井は、その場で修復されることになった。
焼失した大屋根の代わりに、最も巨大な傘が用意され(ルーブル宮は例外とする)、現状維持のため、外部者の侵入はかたく禁止された。
100人の美術品修復工、100人の指物師、100人の左官、それから金箔師、鋳造工、その他ありとあらゆる分野の職人たちがレンヌに呼び集められた。今回のプロジェクトがいかに困難なことであるかは、幾多の修復をこなしてきた専門家たちには、自明のことだった。とにかく力を合わせ、一日でも早く「ブルターニュの宝」を甦らせるのだ。
その1はこちらから。
追加情報 2005 08 15
続きを書こうとおもいつつ、そのままになってしまっている。火事から10年、ほぼ修復は終了した。だが途中でさらなる不幸な事故もあった。修復中のタペストリーがパリ郊外の工房の火事で焼失してしまったのだ。この建物の材質についてエントリーを書いた。
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第二次大戦からすでに半世紀以上。記憶は歳月とともに薄れつつある。とても有名な映画なので題名は知っていたが、何しろ古い作品なので、見たことがなかった。
HIROSIMA MON AMOUR1959 モノクロ 91分 フランス
アラン・レネ監督、邦題 「24時間の情事」
3月1日、朝8時から、作家Marguerite Duras(マルグリット・デュラス)の講義をレンヌ第二大学で聴いていた。小説La pluie d'été (夏の雨) 1990 という作品で登校拒否の少年が世界の創造について語りはじめるという部分を読んだ。ついで脚本HIROSHIMA MON AMOUR
(広島、我が愛) 1959 の説明があった。日本人の建築家と、映画の撮影で広島に来たフランス人女性との愛情を描いた作品である。「世界の終わりから再構築へ」というのが今日のテーマだった。
教師が広島を撮った有名な写真を知っているかと問いかける。「身体は消滅したが、人間の影だけが焼きついて残ったんだ」。私以外、誰も知らなかった。学生たちはみんな20代前半だ。私よりずっと若い。広島に原爆が投下されたことは知識として知っているだけである。
それから映画の冒頭をビデオで見た。ざらざらした質感の不思議な形態がやがて裸で抱き合っている男女の肉体らしいとわかってくる。画面は原爆投下直後の広島の映像になる。焼け爛れた皮膚。さまよう人々。原爆資料館の映像。そして冒頭の男女の姿が繰り返しはさみこまれる。
強烈な映像だ。でも日本人である私は、度々ドキュメンタリー映像を見ていたし、ナレーションの異様さと男の背中を上下する女の手に邪魔されて、思いのほか冷静に見ていられた。私は前のほうに座っていたのだが、しばらくすると後ろの方から鼻をすすり上げる音が聞こえてきた。ビデオを見たのは、時間にすれば15-20分くらいだったろうか。何人もの、フランス人学生が泣いている。驚いた。きっと彼らにとっては、衝撃だったのだろう。
ビデオをとめて討論にうつった。やはり映像の抽象性が気にかかるという意見があった。言葉の様々な解釈について。ある学生が質問した。「映像はすべて本物か?わざとらしさがある」。教師は「よくわからない」と答えた。私は「これまでに他の映像を見たが、実情はこの映像よりひどかったと思う」と言った。教師はしばらく黙っていたが、そのあと声がかすれていた。
講義がおわって、何か話しかけようかと思ったが、私自身映画を全編見ていないので、感想の述べようもない。見終わったら、自分の意見を話してみたいと思う。それにしても、映画の中の日本は、今とあまりにかけ離れていて、遠い昔の記憶の残照のようだった。今日は地球の裏側から、日本のことを考えた。
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