それは6月7日のことだった。レンヌの旧高等法院前に巨大なパラボラアンテナをつけたテレビ中継車が10台くらい並んでいた。80人もの警官(50人の共和国保安機動隊員をふくむ)が建物を取り囲んで、異常なまでの警戒体制をとっている。こんなことははじめてだった。ノルマンディー上陸作戦60周年記念式典(6月6日、7日参照)の翌日だったので、式典に参加していた要人のうちの誰かが立ち寄ったのかと思った。
建物を遠巻きにするように、見物人がたくさんいたので、何があったのか犬を連れている女性に聞いてみた。「誰か来ているんですか。もしかしてブッシュ大統領ですか」という私の問いに「違うのよ。例の裁判がはじまったのよ」と答えてくれた。1996年7月、フランスでも有数の観光地モン・サン・ミッシェルのすぐ近くの町、Pleine-Fougèresプレーン・フジェールにあるユース・ホステルの一室で、当時13歳の英国人少女Caroline Dickinsonキャロリン・ディキンソンさんが性的暴行を受け殺害された事件である。その事件の裁判が、ここレンヌの重罪院で行われているのだ。
犯行のあった夜、4人の友達、メリッサ、カミーラ、アン、ジェニーも同室に寝ていたのだが、犯行にまったく気づかず、朝死体で発見されたという不可解な事件だった。彼女たちの証言によると低いうなり声、あらい息遣いが聞こえるなどのかすかな異変はあったらしいのだが、そのまま心配もせず寝てしまったらしい。なぜなら彼女らのうちのひとり、ジェニーはよく寝言をいう癖があったからだ。
はじめは浮浪者がうたがわれたりしたのだが、DNA検査で容疑が晴れ、17日後に釈放された。その後数千人が取り調べたをうけたのだが、決定的証拠がなく捜査は難航した。ついにプレーン・フジェールにすむ15~60歳までのすべての男性268人と近隣の町の200人がDNA鑑定をうけることになった。捜査当局はこれでかたがつくと考えたのだろうが、結果がでて捜査は皮肉にも振り出しにもどった。捜査範囲も半径100キロから200キロへと広げられた。しかし解決の糸口も見出せないまま時間だけが過ぎていった。もう迷宮入りかと思われたこの事件は、5年後にひとりの男性が米国フロリダ州で逮捕されたことで急展開をむかえた。
わいせつ罪の疑いで逮捕されたArce Montesアルセ・モンテス被告(54)はフランスに送還され、DNA鑑定でディキンソン事件の暴行犯であると断定されたのである。この裁判にこれだけの注目があつまっているのは、被害者は英国人、被告はスペイン人、逮捕されたのは米国だからである。だがそれだけではない。彼はオランダ、英国、ドイツで同様の暴行事件をおこしていたのである。どのような判決がでても話題になるわけである。
この裁判を傍聴できると聞いたので、手荷物チェックをうけ建物の中にはいった。中庭に150人が収容できるテントが設営され、巨大なスクリーンに裁判の様子が生で映しだされている。ちょうど女医が質問に答えているところだった。カメラは時折被告の顔をとらえるのだが、フランス語がほとんど話せないらしく、退屈そうにすわっている。テントの中には一般の傍聴人のほかに、裁判の様子をスケッチする人やメモを取る記者などがいた。1時間ほどたったところで休廷になりみんな外にでてしまった。それまで私の側にいた人が、警護をしている警官にその日の日程を尋ねている。「裁判は夜中まで続くと思うよ。それにしても被告は反省なんかしていない顔だね。こんな仕事は気が重いよ」と彼は個人的な意見を述べていた。
確かに被告の次のような供述は被害者キャロリン・ディキンソンさんの家族にとっては耐え難いものであっただろう。アルセ・モンテス被告は「ウイスキーと一緒に抗鬱剤を服用したので、どうやってあそこの町まで行ったのかも覚えていない。スーパーマンになったような気分だった」と強姦容疑を認めたが殺害は否認していた。「彼女を殺そうとはしていない。誰かを殺す能力はない。ただ性的な欲求に従っただけだ。殺人犯ではない。詳しくは覚えていない」と弁護士が繰り返すだけだ。ディキンソン事件当時、彼は事件現場からそう離れていないVitréヴィトレの町でひとりの女性と一緒にくらしており、子供も生まれていた。その女性にとっても受け入れがたい事実であっただろう。
テレビ局がそれぞれのニュース番組で、裁判の様子を伝えていたが、「この事件でDNA鑑定が証拠としての重要性を確立した」というコメントがあった。指紋の捺印でもプライバシーの問題が取りざたされているのに、町中の男性がDNA鑑定に応じたのだから。「狭い町で隣人を疑いつつ一生過ごすよりは、汚名をはらすほうがよかったのよ。だってやましい人はいなかったのだから」と別の女性がしみじみとした口調で話してくれた。結局9300人が取り調べをうけ、3800人にDNA鑑定が実施された。その費用だけでも1億5千万円近くになる。まさに前代未聞の事件だった。
この裁判の判決は、6月14日、言い渡された。終身刑の求刑に対し、禁固30年(22年間釈放不可)であった。
あとがき
自分で裁判を傍聴したこともあり、ずっと書こうと思っていたが、パソコンの故障でのびのびになっていた。フランスではずっと注目をあつめてきたが、日本にはくわしく伝わっていない事件だと思う。12~15歳までの多くの少女が被害にあっていることを考えると、もっと早く対処できなかったのかと腹立たしい。