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2004年8月の記事

2004.08.31

サン=テグジュペリの薔薇

  数年前、パリのパンテオンをたずねた時、ホール中央の柱にサン=テグジュペリの名前を刻んだパネルがあってとても驚いた。もちろん、サン=テグジュペリの星の王子様は世界中で愛されているし、この挿絵のはいった当時の50フラン札は今でも大切に保管している。でも、フランスに一番貢献した偉人なのかどうか、それは各自の判断におまかせしよう。

  さて、Le Monde(ルモンド抄訳)『星の王子さま』と芸術の女神……「薔薇」とは誰のことか、56年経ってやっと判明した!に紹介されているサン=テグジュペリの薔薇・奥さんのコンスエロの記事を楽しく拝見した。コケティッシュで自惚れや、怒りっぽくって、嘘つきで、棘があって、咳をするというコンスエロの性格は実に興味深い。

  世の男性たちにとっては、離れがたい魅力を持っていたにちがいない。「黄金の羽根だ。貴女は世界で一番素晴らしい。まるで妖精だ。貴女を理解しその野生の美を感嘆するにはケッツアル(アステカの聖なる鳥)でなければならない」と言わしめるだけの女性だったわけだ。サン=テグジュペリがなくなった後、彼女はどのような生涯を送ったのであろうか。

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フランス人ジャーナリスト拉致される

  2人のジャーナリストがイラクでイスラム過激派により拉致されている。シラク大統領は昨日テレビ演説し、人質の解放を要求した。ジャーナリストのビデオもテレビで放映されていた。すでにバルニエ外相はカイロに飛び、解決に向けてアラブ各国の支援を求めている。ニュースはLe FigaroLe Mondeなどで見られる。

  フランス国内のイスラム教徒の反応はどうかというと、拉致行為を非難するとともに、フランス政府と協力し人質解放を求めるものだった。フランスはイラク戦争に反対の立場をつらぬいているし、なぜ、イラクでジャーナリストが拉致されたのか、疑問もある。

  現在フランスには、総人口6千万人中、4百万~5百万人のイスラム教徒がくらしている。大部分は穏健派で、フランス社会に順応し共存してきた。「宗教分離」を実践する政府と、敬虔なイスラム教徒の間で摩擦が生じ始めたのは近年のことで、スカーフ問題は1989年から、フランス各地で大論争を巻き起こし、ついに法制化に至った経緯がある。そう簡単に撤回するわけにはいかないのだ。今は人質の無事解放を待つしかない。

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2004.08.29

モン・ブランに別れを告げて

mont_3.jpg   山小屋の大掃除をして、28日の朝、コンブルーを後にしました。27日、日暮れ時のモン・ブランの美しさはまさに夢のようでした。山全体がRoseに染まったかと思うと、ふもとから白みがかってきて、最後には山頂だけが「さよなら」とでもいうかのように、ほのかに赤みを残していました。それから、ついに頂まで白くなったかと思うと、今度は山の背後の空がRoseになり、それが次第に薄紫色から、薄墨色に、そして紺色に変わってゆきました。

  その間約1時間、指先がすっかり冷えてしまいましたが、ずっと立ったまま、モン・ブランを見つめていました。山小屋からほんの100メートル歩いただけで、モン・ブランの全景、Aiguille du midiから Aiguille verteまでがすっかり一望できる素晴らしい場所があるのですが、そこにも誰もいませんでした。まさにモン・ブランをひとりじめした気分でした。

  もう山には秋のおとずれを告げる花が咲き始めましたし、紅葉し始めている木もありました。半日かけてフランスを横断し、レンヌに帰ってきたのですが、今晩はきっとモン・ブランの夢を見るでしょう。写真は少しずつ下部が白んできつつあるところです。

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2004.08.27

ミルティーユを求めて山奥に

a_la_montagne.jpg    水曜日、険しい山(私にとっては)を駆け巡った。道なき道をセシルが杖で切りひらきどんどん進んでいくのに、私は息をきらしつつついて行った。登ったのは標高400メートルくらいなのだが、時として傾斜が35度くらいあって、獣道もないところなのだ。セシルは70歳なのに、山にはいると生き生きしている。身体がすっかり山になじんでいるのだ。ただ山歩きをするのが目的ではなく、FanboiseフランボワースとMyrtileミルティーユを探しに行ったのだ。

  それだけ登ったのに、もう他の人が来た後だったのか、ミルティーユの実はほとんど残っていなかった。フランボワーズはいくらかあったが、とげがあるので、あんまり早くは集められなかった。それでもつまみ食いをしつつ、2人で1キロ以上集め、帰ってすぐに、ジュースとジャムにした。

  くたくたになって、もう駄目と思ったのだが、木曜日、セシルの家族から電話があって、もう一度ミルティーユを取りにいくことになった。今度は車で1400メートルまで登って、それからさらに、山道(今度はちゃんとした獣道)を300メートルくらい登り、別の場所へ。そこには、昨日よりずっとたくさんのミルティーユがあって昨日よりも簡単に多くの収穫(約4キロ)をあげることができた。これまでも、フランボワーズを買って食べたことはあるが、これからは、タルトやジャムを食べる度にこの贅沢な体験を思い出すだろう。

     追記

   地図をみながら、よく考えてみたら、思ったよりも高いところまで登っていた。山小屋がある場所はたぶん標高950メートルくらいで、2日とも最低1800メートルくらいまで行っているのだ。1日目は行き帰りとも徒歩だったのだから、疲れてあたりまえ?

   Myrtileミルティーユは辞書には、「スノキの実」と訳されているが、みかけはブルーベリーとよく似ていて、タルトにして食べることが多い。私たちは、生のミルティーユにクリームと砂糖をかけて、少しつぶすようにかきまぜて食べた。やみつきになるおいしさだった。木はひざくらいの高さである。

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2004.08.24

コンブルーの風景

Dscn0013.jpg  火曜日はあいにくの雨。午後の昼さがり、やっとパソコンにむかっています。昨日はセシルもふくめて4人で国境を越え、スイスのMartignyマルティニまで列車で行きました。マルティニにはローマ遺跡がたくさん残っていて、円形競技場もありました。ここに座って、古代ローマに支配されていた頃のことを無想しつつ、山の傾斜地に植えられている葡萄畑を眺めたのです。とてもいい天気だったので、万年雪が残る山並みがはっきり見えました。国境を越えると、列車の運転手も交代します。フランスは背広姿なのに、スイスでは赤いTシャツに軽快なグレーのパンツ。お国がらの違いがはっきりあらわれています。

  Comblouxコンブルーの家々は、きそいあうように花で飾られていて、まるでおとぎ話の世界に迷い込んだかのようです。ただ難点は物価が高いことだそうです。土曜日の朝、TGVがとおっているSallanchesサランシュの町まで、セシルと二人でヒッチハイクをして、食料を買いに出かけました。これが生まれてはじめてのヒッチハイク。ちょっと恥ずかしかったのですが、雨が降り始めたので、車に乗せてもらおうと必死になりました。何とか朝市で買い物をすませ、ちゃんと帰れてよかった!

  日曜日には姉妹都市のスイスとイタリアの町からやってきた人たちを交えてお祭りがあり、歌ったり踊ったりしてにぎやかな一日になりました。こうした交流は誰にとっても、夏の楽しみのひとつです。  

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2004.08.22

モン・ブランをながめつつ・・・

mont_blanc.jpg 滞在3日たってやっとモン・ブランの全景が見えました。今日の午前中は雨だったのですが、やっとモン・ブランが姿を見せてくれてとても感激です。家の中から見えるんですよ。

  コンブルーの町はとても素敵な町で、散歩するのはとても楽しいです。10分ごとに見え隠れする山を眺めながら夕方のんびりと散歩しました。山小屋では暖炉に火をたいて本を読んだりしています。テレビはないので、時間がゆっくりすぎていきます。

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2004.08.19

アルプスの山小屋へ

セシル(4月21日参照)が待っているので、Comblouxに行ってきます。パリまで出て、寝台列車(はじめての体験)に乗って朝Sallanchesに着き、バスの乗り換えて約30分。ほとんど、フランス横断です。

  天気予報は雷注意。晴れたらモン・ブランが見えるそうです。いちおうパソコンは持っていきますが、接続できるかどうかわかりません。ブルターニュには山がないので、山の風景を見るのが楽しみです。では行ってきます。

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2004.08.18

ブルターニュとノルマンディー

nor.jpg  これまでにも、ノルマンディーを旅したことはあった。牛が草を食むなだらかな田園風景はブルターニュとよく似ている。でも今回本当におどろいた。結婚式に出席した人たちは、それぞれ、近郊の村々にあるChambres d'hôtesまたはGîteと呼ばれる民宿に別れて泊まっていた。私はBaslyという村のLa rose des ventsというところだった。紹介されている写真は数年前のもので、今では季節の花が植えられ、内部も手が加えられている。人のいいほがらかな奥さんが毎朝手製のお菓子を焼いてくれた。

  ブルターニュなら、どんな小さな村にもCaféかCrêperieがある。軽食を食べたり、コーヒーを飲んで客や店の人と雑談するのは楽しいものだ。ところが、ノルマンディーには何もないのだ。教会とパン屋があるだけ。あとは何もない。時間をもてあましてしまう。それでも海岸ぞいなら、散歩するだけでも楽しいだろう。だが、私のいた村は内陸にはいっていて一面畑だった。こんなに違うとは、思っていなかった。ブルターニュは南仏に次いで人気のある観光地だということを改めて感じた。

  帰りの列車がブルターニュに近づき緑が多くなってくると何だかほっとした。田舎がいいとはいっても、本屋も映画館もないのはやはり刺激がなさすぎる。レンヌは人口約20万。フランスではあこがれの大都会なのである。

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フランスの結婚式

vincent_1.jpg  フランスでは2種類の結婚式があります。Mairie役場で行われるMariage civil 民事婚と、Mariage religieux 教会での結婚式です。前者は必ず行われるのですが、後者を行うカップルはそう多くはありません。教会離れが進んでいるのからです。

  VincentとKarineの結婚式はノルマンディーの海岸Arromanches の近くのAsnellesの役場で先週土曜日に行われました。ちいさな部屋に入りきれないほどの招待客は、ふたりの晴れ姿をカメラにおさめようと腕をのばしています。招待客はアメリカ、中国、日本などからこの日を祝うためにやってきているのですから、それも当たり前でしょう。私は6年くらい前から2人のことを知っています。Vincentは3年間、日本でフランス語を教えていました。Karineにとって、日本はあまりに遠い国です。「会いたい。さびしい」と言っていたKarineを知っています。それでも2人の心が離れることはありませんでした。

  新郎新婦の出生証明が読み上げられ、民法の配偶者の義務と権利に関する条目に同意してサインすれば結婚が成立します。双方の証人も書類にサインをします。費用は無料、時間は15分くらいでおしまいです。それから歩いて5分くらいのEglise Saint-Martinで宗教婚が行われました。カソリックは離婚を認めていないので、まさに死が2人を分つまで添い遂げるという意味です。写真は教会から出てきた二人の様子です。いつまでも幸せにね!

  それから、地元の人たちを招いてシャンパンやワインがふるまわれ、違う会場でいわゆる披露宴が行われました。デザートがでてきたのは、夜の12時すぎ。その後だんだん人が減っていって、最後3時までダンスを踊っていたのは20人くらいでした。私も最後ちょっとだけ踊りましたが、ほんとうにフランス人は元気です。

  翌日、午後1時からもう一度食事がふるまわれました。それぞれの人が帰路につきます。私も久々に日本の知り合いに会えてうれしかったのですが、楽しい時間はすぐにおわりです。別れるのは後ろ髪を引かれる思いがしました。みんな元気で。また会えますように。

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2004.08.17

おめでとう! 日本

  フランスでも生放送で、最後の鉄棒の様子見えました。おめでとう。金メダル!! でも途中でフランスのメダリストが生出演して中継がとぎれ、体操の結果がどうなったのかわからず、ひやひやしてしまいました。

  最後の最後で逆転優勝するなんて、なんて劇的なドラマになったことか・・・ 私もちゃんと拍手しましたよ。テレビのあるところに帰ってきていてよかったです。

  乾杯といいたいところですが、結婚式後のパーティーでちょっとシャンパーニュをいただきすぎたので、お茶でお祝いします。もう一度感動のシーンを見たいのですが、それは無理みたいですね。

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Vincent&Karine 結婚おめでとう!

normandie.jpg

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2004.08.13

Le Barzaz-Breiz バルザス・ブレイス

barzaz_breiz.jpg  Le Barzaz-Breizバルザス・ブレイスとはブレイス語でブルターニュの歌という意味である。Théodore Hersart de la Villemarquéテオドール・エルサール・ド・ラ・ヴィルマルケが1839年8月に歌集を出版すると、スコットランドのオシアンの歌がもてはやされたのと同じように、ヨーロッパじゅうで大人気となった。この歌集には口承で伝えられてきた歴史を中心とする54の歌がおさめらてていた。ジョルジュ・サンドは「素晴らしい叙情文学である」と絶賛している。

  ところが後にほかの研究者によってバルザス・ブレイスの一部が、口承のものとは異なると指摘された。彼が一部を改変したのではないかという疑惑である。しかも彼はブレイス語を知らないので、フランス語で書いて、ブレイス語に訳した可能性があった。この論争は長引き彼の名誉を傷つけ、その人気も下火になった。

  私がバルザス・ブレイスを知ったのは、ある講演会の会場で録音テープを聴いたのが最初だった。かれこれ3年以上前のことだ。伴奏もなしに、年配の女性が歌うブレイス語の歌。歌詞は全くわからなかったが、心にしみるような哀愁に満ちた歌声が忘れられなくて、すぐに店でCDを買った。それがこの写真で、詳しい解説書もついている。私が聴いたものと同じではないが、大好きなCDであることに変わりはない。

  オシアンの歌はナポレオンが愛したことでよく知られているが、バルザス・ブレイスについて、日本ではほとんど知られていないのではないだろうか。ブルターニュ音楽のルーツともいえるバルザス・ブレイスは、現代のミュージシャンにも多大な影響を与えているのである。

        追加情報

  Le Barzaz-Breizバルザス・ブレイス関連書籍についてブルターニュ関連書籍 その7 バルザス・ブレイスにまとめてみた。

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2004.08.12

ブルターニュの古木

chene.jpg
 これがブルターニュ最古のchêne(カシ、カシワ、ナラなどのコナラ属)だそうだ。樹齢は最低500年、もしかすると1000年以上たっているかもしれないという。今ではうろが広がって2本にわかれた状態になっている。樹皮は非常にもろく、さわっただけでもぼろぼろとはがれてくる。だが、枝の先端の葉までいきいきしていて今でも元気だ。枝ぶりも非常に美しく、添え木なども全くないことに驚いた。

  場所はGuingampから南西約20キロ、Bulat-pestivienである。大きすぎて全景がうつせなかったが、この巨木は農家の中庭にひっそりと立っている。農家の前にいちおう小さな看板がでていたが、そこまで行くのに案内なしではむずかしいかもしれない。

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2004.08.11

フランスの原子力発電

nucleaire.jpg   3日間、樹木の専門家に会うためにブルターニュ内陸部に行っていた。テレビも電話もないと聞いていたので、パソコンは持っていかなかった。夕方戻ってきて、スーパーで買い物をした。レジのところにおいてある地方紙Ouest-Franceの第1面の「日本、原子力発電所内で蒸気が人を殺す」という記事が目にはいったのであわてて帰宅し、パソコンで日本のニュースを見た。

  事故にあわれた方々は20-50歳代。すでに4人が亡くなっている。「破裂部分は76年に運転を始めてから一度も点検されていなかったという」(朝日新聞)定期点検を忘れていたとは、あまりにお粗末すぎる。加えて次のような認識の甘さが問題となろう。「今回の美浜原発事故でも作業員は普通の作業服を着ていた」(産経新聞)というのだから。この怒りをどこへぶつけたらいいのだろう。火事ならば、自分で逃げきれる可能性もある。だが、放射能漏れがあっても自分では察知しようもないし、わかってからでは遅すぎる。ほんとうに怖い。

   フランスの原子力開発計画は、1973年のオイルショックで加速し、翌年には「全電化-全原子力」の方針が決定された。そしてわずか10年で総発電電力量の50%が原子力発電によるものとなり、2001年末には77%に達している。詳細については科学省のホームページ「原子力百科事典ATOMICA」(フランスの原子力政策および計画)をご覧いただきたい。

   先週ロワールの城めぐりをした時に、原子力発電所を見た。小高い丘のうえからあたりを眺めると、そこだけ異なっていた。写真ではわからないが、白い煙のようなものに取り巻かれているのである。なぜ原子炉がロワール川のほとりにあるかというと、原子炉の冷却に川の水を用いているからである。排水は川に戻されるので生態系保護のためその温度が定められているのだが、昨年の猛暑の折には政府が規定よりも高温での排出を認める例外措置を取り、物議をかもした。フランス人の友人も「何ごとも完全なものはないから一抹の不安を感じている」と言っていた。中世の栄華をとどめる古城のすぐそばで見たフランスの一面である。

   念のため、すべての原子炉の再点検をすぐ実施してほしい。そして、もう二度と、このような悲しい事故が起きないことを祈りたい。

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2004.08.07

究極のガレット

galette.jpg   ブルターニュにはCrêperieクレープリーがいたるところにある。日本でクレープというとジャムやクリームたっぷりのおやつというイメージだろう。「今日はCrêperieで食事をしよう」というと変に聞こえるかもしれない。

  CrêperieでメインにたのむのはGaletteガレット(そば粉をクレープ状に焼いたもの)である。種類はいろいろあって、ハム、目玉焼き、チーズ、バターなどの組み合わせを選ぶ。もちろんCidreシ-ドル(りんごから造った発泡酒)も忘れずに。それからデザートにCrêpeクレープをたのむ。これは日本のクレープを想像してもらえばいい。

  一番手軽なので、しばしばガレットを食べたことがある。でも正直言うと、塩辛いし、バターで胃がもたれるし、そんなにおいしいと感じたことはなかった。ある時、Crêperieにとても詳しい人を紹介された。その人は「Crêpeは芸術品」という。でも本当においしいCrêperieはもうブルターニュでも10軒ほどしか残っていないというのである。そこでこっそり住所を聞いて、一軒のCrêperieを訪ねた。

  そこはレンヌから3時間以上離れた村の農家であった。こういった農家は民宿もかねていることが多いのだ。はじめに野菜スープをたのんだ。家でとれた野菜を煮込んださっぱりとしたスープはとてもおいしかった。そしてGaletteが出てきた。自家製のベーコンとバター。だが横にたっぷりとドレッシングのかかった野菜が添えられていて、まったくしつこさがない。究極のGaletteだった。Cidreも一般には販売していないものだという。Crêpeの中身はもちろん特産のりんご。これにCalvadosカルバドス(りんごの蒸留酒)をかけ火をつける。味は大満足だった。

  食べている途中で奥さんがやってきて、「どうやって、ここを知ったのか」と質問された。地元の人が来るだけで、日本人がわざわざ食べにきたことはないというのである。事情を説明すると「そうじゃないと、こんな畑の真ん中まで来れないわよね」と笑っていた。究極のGaletteを守りつづけているのはどんなガイドブックにも載っていない普通の農家だった。

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Yahoo対策 ブルターニュ普及作戦 結果報告

  7月21日に開始したYahoo対策 Bretagne ブルターニュ普及作戦の経過を書いてみたい。この時点の検索順位は次のとおりだった。

  Googleでブルターニュと入力すれば、うるわしのブルターニュは4番目にでてくる。ところがYahooには名前がでてこない。ずっと見ていくと380番目だった。これでは、誰もきてくれないはずだ。今度はBretagneと入力してみた。Googleは4番目だったが、Yahooでは245番目(市絛三紗の名称)である。うるわしのブルターニュでは500番にはいっていなかった。

  その後、ブルターニュという単語を多用して、順位が変動するか実験したわけだ。8月4日の結果はGoogleは順位が下がって6番目、Yahooは179番目だった。ブルターニュという単語を書き続けても、順位は179~195番目をいったりきたりでこれ以上の上昇はのぞめない。ところが、私はもうひとつ喜ばれる贈り物大百科というBLOGを友人から引き継いで書いているのだが、こちらは123番目にランクされている。2度ブルターニュという単語を用いただけなのに・・・ なぜこんな結果になるのかというと、喜ばれる贈り物大百科はLivedoorのBLOGだからだ。

  ココログのBLOGはYahooでは上位に表示されないというのが現状なのだ。作戦開始時にこのことはうすうすわかっていたので、やはりそうなのかと少々落ち込んでいた。ものはためしとYahooに自分で推薦してみた。結果は約1ヵ月後ときいていたのだが、日本時間で8月5日の夕方にご推薦いただいたページをYahoo! JAPANに掲載させていただきましたというメールがとどいた。推薦依頼をしてから約10日しかたっていない。その結果、うるわしのブルターニュはブルターニュという検索で1番目に表示されるようになった。したがって普及作戦は本日で終了する。

    地域情報 > 世界の国と地域 > フランス >ブルターニュ
    ・うるわしのブルターニュ - ブルターニュ在住の作者による歴史、文化、
    生活等についてのウェブログ。

 
  また8月4日付けのテレビ朝日のメールマガジン、報道ブーメラン 第242号で、ディキンソン事件(7月19日)のアドレスが紹介された。このように自分の書いたものになんらかの反響があることはとてもうれしいが、ブルターニュについていいかげんなことは書けないとあらためて気持ちを引き締めている。ご意見があればコメント欄に遠慮なく書き込んでほしい。

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2004.08.05

ロワール古城めぐり

blois.jpg   フランス人の友人とロワール川のほとりに点在するお城を巡ってきた。ブルターニュに関係する城だけを訪ねたちょっと風変わりな旅だったのだが、いろいろ知らなかったことも教えられ、とても充実した3日間だった。実際に内部を見学したのは7ヶ所なのだが、「せめて外観だけでも見てほしい」と友人にすすめられ、たくさんの城の前を横切った。

  普通の観光地図には掲載されていないPlessis-les-Tours城を見たかったので、観光案内所で場所を聞いた。城自体は破壊されてほとんど何も残っていないことは知っていたのだが、どんな場所にあるのか知りたかった。「公開していないし、行ってもしかたないわよ」といぶかしがる観光案内所の人に「外観をひとめだけでも見たいから」と地図をもらい、出かけたのはいいが、たどりつくまでに30分以上道に迷った。そこは工場が立ち並び、今では中世の有り様を想像するのはむずかしい。門の隙間から、何とか建物を見ようとしても木が生い茂っていてさっぱり何も見えなかった。ほかの城はたいてい丘の上に建っているのだが、ここは平地だった。それがわかっただけでも収穫だった。

  写真はBloisブロワ城の音と光のショーである。夜の10時から約1時間、立ったまま見たのだが、時間を忘れるほど素晴らしかった。特にナレーションがよかった。3日間、ロワール川を左に右に眺めたが、歴代の王たちが愛した美しい風景はそう変わってないだろう。旅のおともには田辺保さんのロワール川・流れのまにまにをぜひ携帯してほしい。


  

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2004.08.02

アンティークショップ

antique.jpg  数日前に偶然のぞいたアンティークショップのショーウインドー。とっても気になるものがあるのだが、それから店が開いていないので、聞きようがない。ガラスごしの写真だが、左下に2人の肖像画が見えるだろう。CharetteとCadoudalである。ほかにも何かあるのか、ないのか。こうなったら、日参するしかない!

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2004.08.01

嗚呼、うるわしのブルターニュ

lorient.jpglorient2.jpglorient3.jpglorient4.jpg
日帰りでLorient ロリアンに行ってきた。Festival du Interceltique de Lorientが7月30日からはじまったのだ。(8月8日まで)
 
  昨年は40度近い気温、おととしは雨が続き寒かったので、今年はじめて行くことができた。

 写真1) 会場となる町の中心には、大小さまざまな仮設テントが設営され、ブルターニュの白黒の旗がいたるところにひるがえっている。

 写真2) 野外競技場でBagadoùバガドゥーというジャンルのコンクールを見た。ブルターニュに伝えられてきた伝統的な音楽をアレンジし30~60人で演奏する。指揮者がいるのだが、ほとんど踊っている感じである。演奏者も観客も足でリズムをとっている。はじめて見たが、迫力に圧倒された。伝統を継承しつつ、新しいジャンルを開拓してゆく、ブルトン音楽の無限の可能性に精一杯の拍手を贈る。

 写真3) 別の会場で行われる歌とダンスのチケットを買っていたので、途中で競技場を後にした。舞台に年配の男性が50人ほど勢ぞろいしたのを見た時、正直にいうと「余興じゃないのに」と思った。はっきり聞き取れなかったのだが、マンチェスター近郊から来た人たちで、平均年齢は75歳くらいだろうか、杖をついている人までいたのだから・・・ いざコーラスがはじまると、まず豊かな声量にどきもをぬかれた。そして、ハーモニーの美しさ、表現力の豊かさに会場全体が静まりかえる。これまでにこんなに素晴らしい男性コーラスを聴いたことがなかった。約1時間、15曲くらい歌ったのだが、後になるほど声がのびてくるのが、しろうとの私でもわかった。

 写真4)  アイルランド音楽の演奏。会場内はサウナのように熱気がこもり、寒がりの私でさえ、汗びっしょり。パンフレットを扇子がわりにパタパタ動かして、かすかな風をおこそうとみんな必死だ。はぎれのいいパーカッションが素晴らしい。女性がひとり、ダンスも踊る。むしょうにアイルランドに行ってみたくなる。

 どれもレベルが高く、素晴らしい演奏、ダンスだったが、私はやはりブルトン音楽が好きだ。もう身体に染み込んでしまっているのだろうか、ブルトン音楽を耳にするといてもたってもいられなくなる。歩いているとSt Aubin du Cormierサン・トーバン・デュ・コルミエでつい1週間前に出会った人と再会した。ブルターニュの歴史を正しく一般の人に伝えようと各地で様々なイベントに参加しているのだ。ここに来ている人たちはみんなブルターニュが大好きなのだ。そんな当たり前のことが、とてもうれしかった。

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