チューリップ
タボール公園はいろとりどりのチュ-リップが咲いています。
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CARNACカルナック一帯に並んでいるおびただしい列石群。Locmariaquerロクマリアケールに横たわる巨石など、ブルターニュには石がごろごろしています。いったい誰が、何の目的でそれらをそこに置いたのかはわかりません。
これらは有名ですから、どのガイドブックにものっていますが、それだけでなく、ブルターニュ地方のいたるところに、不思議な巨石がありますし、石造美術にも特筆すべきものがいろいろあります。
いままでにもいくつかは紹介してきましたし、写真集La Bretagneにも石の写真がありますが、まだ個別に全部説明できていません。それを丁寧に解説してくれているのが、ほあぐらの美の世界紀行という素晴らしいホームページです。石にこだわって世界を旅しているすごい人です。
「ロマネスク美術紀行」は実に285ヶ所も紹介されていて、見飽きることがありません。これまで石に興味なんてないという人でも、きっとその魅力に目覚めることでしょう。
写真はSaint-Thégonnecサン・テゴネックのキリスト磔刑像の一部を拡大したもので、Roland Doréによってつくられました。中央の目隠しされているのがキリストですが、横の二人の表情が何とも言えませんね。この像の服装は17世紀のものです。
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この写真を見てどう思うでしょうか。うらぶれた裏道、あるいは薄暗くてさびれた商店街といった印象でしょうか。
ここが「レンヌで最もにぎやかな歓楽街で、朝までおおぜいの若者たちでにぎわっているところ」と言ったら信じられるでしょうか。昼間は人通りが絶えますが、バーが集まっているので夜10時ころから人が集まりはじめます。
Rue Saint-Michel サン・ミッシェル通り、別名Rue de soif 飲んだくれ通りと呼びます。ここでは16,17世紀の古い木組みの建物も残っています。毎晩大声で叫んだり、街路樹によじのぼったりする酔っ払いが出没するところです。
だからといって、とても危険かというとそうでもありません。100メートルに満たない短い通りなので、普通に歩いているだけならすぐに横切ってしまいます。
すぐ横のサン・タンヌ広場にはメトロ(地下鉄)の駅があるのですが、ここにある回転木馬が昨年12月に暴走しすぎた若者に襲撃されました。その時の詳しい様子はメルマガに連載しています。
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小雨まじりの土曜の午後、自宅にいるとビニューの音がだんだん大きくなってきた。それもひとりや二人が奏でる音ではない。あわててカメラをつかんで外に出る。すでに見物人が道路の両側に陣取っている。
市内をパレードしてきた3グループは市役所前広場で合同演奏を行った。総勢100人以上だっただろうか。まだ小学生とおぼしき少年もいたし、身体の半分以上もあるようなバスドラムをたたいている女性もいる。ちょうど薄日が差してきて、演奏者も見物人もホッとする。2時間弱、たっぷり演奏を楽しんだ。右のアルバムに写真を載せておいた。
この日、ロータリークラブ100周年記念の展示が行われていて、そのイベントの一部だったもようだ。ロータリークラブは1905年にアメリカ・シカゴで誕生。レンヌには250名のメンバーがいるという。
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日本時間ではもう24日の明け方。今ニュースをチェックしていたら、ウイルスバスターが原因(朝日新聞)で大変なことになっていると知った。朝パソコンを立ち上げたときに何度もパソコン再起動の指示がでておかしいとは思ったのだが、そのまま使えたのでそれ以上深く考えなかった。
私の場合、たまたま時差があって助かったわけ。というより昨日はいつもより早めに寝たので、ぎりぎりセーフだったわけだが、もしいつもどうりに起きていたらみんなと同じようにパソコンが動かなくなっていたはず・・・ 運がよかったとしかいいようがない。
もうこれでトレンドマイクロ社もチェックをきちんとするようになるだろうが、ほんとうに何が起きるかわからない・・・ ちゃんとまめにバックアップとってないといけないとあらためて反省。こうやって普通に使えてよかった。
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バターがたっぷりのクッキー、Galettes Bretonnes ガレット・ブルトンヌという名前。おやつにはぴったり。これはさくさくしていて口当たりがよく、最近よく買っています。Hermineとともにに書いたように、ブルターニュの象徴であるモチーフつきです。たぶん全国で販売されていると思うのですが、確認はできていません。見つけたらお知らせくださいね。
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西洋の文化を学ぶ日本人にとって厄介なのが人名や地名。フランス語を聞いてもそんな名前知らないといつも思うのだが、よく説明を聞いているうちに何となく、もしかすると知っているかもしれないと思いはじめる。けれども確信はないし、特殊な人名はふつうの辞書に載っていないこともあって、正確な情報を見つけるのはとっても大変だ。
はじめに謎だったのが「ジェジュクリ」。「そんな人知らない」と言って馬鹿にされた。Jésus-Christと綴りをみれば、誰だかわかるのだが・・・ 聖書の日本語人名表記は古典ヘブライ語から派生したものが多いのだが、時にはギリシャ語だったりほかの言語だったりするので、日本語で聖書を読んでいても、フランス語表記になると、さっぱりお手上げなのである。前法王ヨハネ・パウロ2世の名前を中心に、辞書Wikipediaから関連する単語を抜き出してみたので下記に列挙する。
イエス
かつての日本のカトリック教会ではラテン語の発音からイエズスという語を用いていたが、現在ではエキュメニズムの流れに沿ってイエスに統一されている。また、英語の発音からジーザス(・クライスト)という表記が用いられることもある。ギリシア語Ιησους(イエースース)の日本語表記。元の語は、アラム語イェーシュア(ישוע Yeshua')=ヘブライ語のヨシュア(イェホーシューア יהושע Yehoshua')。「ヤハヴェ(エホバ)は救い」を意味する。当時のユダヤ社会では普通に見られた名前。東地中海地方ではその後も「イーサー」「イースス」の形でよく用いられる。キリスト
ギリシア語Χριστοςの日本語表記。ヘブライ語メシアの意訳で英語の発音からメサイアなどとも言い、救世主を意味する。(原義は、香油を注がれた者を示す普通名詞)イエス・キリスト
よって「イエス・キリスト」とは「救世主としてのイエス」を意味し、同時にキリスト教徒においては「イエスは救世主である」との信仰告白をも意味する。歴史学等では、歴史上の人間としてのイエスを指す場合は宗教的意味をつけないために「(ナザレの)イエス」を使う。
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シャトーブリアンには古い家並みがほとんど残っていないと説明されたのだが、Rue de Couëré という通りはまだ中世のたたずまいが感じられた。左の三角の屋根の家にはSophie Trébuchetが住んでいた。Léopole Hugoという男性と恋をし、生まれたのがVictor Hugo ヴィクトル・ユーゴーだった。彼が生まれたのはフランス東部のBesançonブザンソンなので、ブルターニュとのかかわりを深く考えたことはなかった。
でも母親から、ブルターニュのことをいろいろ聞いていたようで、彼が自分の中にun sang bretonブルトン人の血が流れていることを自覚していたということを知り、何だかとても身近になった。ヴィクトル・ユーゴーが実際にここを訪れたのかどうかは観光案内所が閉まっていたので、残念ながら聞けなかった。
参考
虹のかなたにも彼の作品について書いている。
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Châteaubriant シャトーブリアンにあったロマネスク教会。前庭にマーガレットの白い花が咲き乱れる夢のような光景。一瞬の間、見とれてしまって今が21世紀だということを忘れそうになった。Église Saint Jean de Béré サン・ジャン・ドゥ・ベレ教会はロワール・アトランティック県で一番古い教会で10世紀のもの。
花崗岩は高価だったので、農家などの建築にも使われるシストという石で作られている。内部には文化財に指定されているいくつかの像があるが、くり返し改装が行われているので古い時代のものはあまり残っていないし鐘楼は19世紀のものだ。
シャートーブリアン城で「ブルターニュで1番古いDonjon」と書いたので少し事情を説明すると、ロワール・アトランティック県はペイ・ドゥ・ラ・ロワールにあるのだが、中世にはブルターニュに属していたので、この教会や城が建った時はここはブルターニュであったわけだ。それで今でもブルターニュのガイドブックに載っている。
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日本からプリンターを持ってくるのは無理だったので、フランスで買いたいと思っていました。でも日本の専門店で聞いても日本語のパソコンには「インストールできない」とか、「文字化けする」のではないかと言われ2年くらいはプリンターなしですませていました。この事情は在仏熊猫日記にも書かれています。
でもある日、「プリンターがないと困る」ことがあって買いに出かけました。上のようなことをこちらの店員に聞いてみたものの、これまで「日本語のパソコンを持ってきた人はいないのでよくわからない」との答えだったので、「一か八か」と不安に思いながらも買ってみました。
すすめられたのは、Lexmarkの商品。プリンターの値段が同じだとしても、インクの値段がほかのメーカーよりも割安という説明でした。インストールのCD-ROMを入れると驚いたことに日本語や中国語にも対応していました。そして、Lexmarkのプリンターは日本語がしゃべれるのです。ちゃんと日本人の声です。今日も「印刷を開始しま~す」と言ってくれましたよ。海外でプリンターを買うなら、Lexmark、おすすめです。
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ブルターニュの音楽を世界に発表する非営利団体STALIGスタリッグは、2000年に組織を立ち上げ、02年からインターネットを用いて販売を開始した。ミュージシャンたちは、6つのレーベル( Stalig, Dastum Bro Dreger, An Naer Produksion, Kreizenn Sevenadurel Lannuon Produksion, Blackbird - Pawel Editions )を介して直接商品を販売するスタイルをとっている。
その目的はミュージシャンどうしが互いに協力してブルターニュ音楽全体の知名度を高めると同時に、販売網が限られているミュージシャンの活動を支援しようというもの。何よりも日本に在庫があって買えるというのがうれしい。
ブルターニュに住んでいれば、ブルターニュの音楽を耳にするチャンスはたくさんある。バーでは定期的に演奏が行われているし、夏場になると各地で音楽祭が開催されるので聞こうとしなくても聞こえてくる。でもまだフランス国内でもイメージが先行していて、はっきりとしたブルターニュの音を知らない人もいる。なぜならブルターニュでも伝統的なメロディーを受け継いだ曲のほかに、前衛的作風のものまであって多様化が進んでいるからだ。
昨年末リヨンへ行ったとき、街角で中世音楽を演奏していたのだが、通行人が「ブルターニュの音楽!」というので思わず「そうじゃない」と声がでてしまったことがある。いったいどんな調べなのか下のサイトから視聴できるので、ぜひ演奏を視聴してほしい。
Assosiation STALIG 日本語ページ
stalig.stalig.com どこでもクリックすると日本語になり、京都の販売店に注文することができる。一部視聴もできるので名前を知らない場合でも納得して購入できる。
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この地の領主Brient氏がChâteau城を築きはじめたのは1030年のこと。もともとは何もなかった場所だ。それが今の地名Châteaubriantシャートーブリアンの由来。とてもわかりやすい!
城は16世紀までどんどん増築されているのだが、予想以上に古い時代の建物が残っていて、現在でも一部は事務所として使用されている。ただ残念なことにフランス革命時に内部は破壊されてしまったので、家具などの調度品はいっさいないという。
左の写真は16世紀に城主の住まいに使用されていた部分を外部から撮影したもの。この部分の城壁は残っていないが、反対側には水をたたえた堀と城壁がある。
いっぽう右の写真は11世紀の基礎の上に建てられた14世紀のDonjon。当時はこれがメインの住まいだったところ。ブルターニュで1番古いDonjonだそうだ。このちょうど正面にはイタリアの影響を受けたルネサンス様式の建物もあるし、その並びには長い回廊もあって、何だかテーマパークか総合住宅展示場みたいに一度にいろいろなものが見られた。冬場は見学できない城も多いのだがここは1年中開いている。
Châteaubriantの町のHP 10世紀の教会や、第二次大戦中にその場でナチによって銃殺された人たちの慰霊碑(公園になっていて全員の写真や経歴が書かれている)もある。
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アフリカの様々な情報を日本に紹介するアフリカ情報通信というサイトがあることを知った。こちらでは日本にあまり伝えられないであろうアフリカのことが非常によくわかる。
私がフランスの片隅から発信した滄海の一粟のごときつぶやきに目をとめてくださり、タンザニアの映画 DARWIN’S NIGHTMAREの掲載依頼をいただいた。少し手直ししてから送ることになっている。掲載は来月初旬の予定である。
それからずっと60~70位くらいに低迷していた2つのBLOGランキングはこの1週間で18~22位くらいに上昇してきた。しかしながらまだ訪問者数に変化はない。メルマガ購読者数は創刊準備号243名、第1号250名、現在262名とわずかながら増加している。明日発行の第2号を今書いているところだ。
みなさんのご協力に感謝し、これからもHermineの旗を空高くかかげ、ブルターニュのことを書き続けてゆくつもりだ。今日も読んでくださってありがとう!
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日曜の午後Châteaubriantシャートーブリアンに出かけた。ここには11世紀から16世紀に建てられた城があって、以前横をとおったことはあったのだが、行くのははじめてだった。
15世紀後半の戦いでほとんど町並みは破壊されてしまったらしいが、それでもきれいな町だ。今週はこの町の紹介をしようと思う。今日は時間がないので詳しいことはまた明日。この花、日本では見たことがないと思うのだが、何だろう?
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ブルターニュを歩くと至るところで Hermineエルミンに出会います。私がつくったホームページの名前もSalon h'Hermineです。ホームページを作ったときにFabiconファビコンもあわせてつくったのですが、気がついてましたか?
ファビコンというのは、今見ていただいているページのURLの前にある小さな印のこと(http:の横)。右にあるのと同じですがもっと小さいです。もしこのページをお気に入りに登録してくれているなら、そのリンクにも表示されているはずです。形が可愛いからHermineにしたのではありません。
Hermineは真っ白な動物なんですが、日本にもいます。クイズにしてもわからないでしょうから答えを言ってしまいますが、オコジョなんです。それがどうして、ブルターニュのあちこちにあるのでしょうか? Hermineはブルターニュ公国の象徴として用いられてきました。ここでバリエーションのいくつかが見られます。
ページの左上にはブルターニュの旗がひらひらしていますが、ここにも同じHermineが並んでいます。写真は公園の入り口なのですが、中央に写っているのも同様です。ブルトン人なら、このHermineを見ただけでブルターニュの澄んだ海や緑の大地を思いうかべるでしょう。
みんなHermineが大好きなので、クッキーやビールにだってこのモチーフが付いています。自転車に乗る時はこれですよ! オコジョは真っ白なのに、なぜ黒くなっているかというと、これは黒い尻尾を示しているからです。歴史的な話はまた別の機会にしましょう。
Hermineエルミンのぬいぐるみと切手 歴代の王のマントもエルミンの毛皮が使われています。
おこじょ倶楽部2001 どんな動物か知りたければ見てください。
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レンヌとその郊外には日本の企業や合弁企業などがあって、駐在員とその家族が数百人暮らしている。留学生も数十人いるし、フランス人と結婚している日本人も案外多い。企業内部では英語だけしか話せなくても大丈夫なようだが、買い物をしたり、映画を見たりと、日常生活をおくるにはやはりフランス語が必要だ。
早い場合だと辞令がでて2週間後に赴任ということもあるらしい。短い旅行とことなり海外生活には予期しないトラブルもたくさんある。何でもあらかじめ知っておいたほうが戸惑うことがすくない。いくつか質問を受けたので、ブルターニュ幻想館(暮らし、フランス語)に役にたつ本をあげておいた。
目的によって本はいろいろあるが地球の暮らし方はすみずみまで読んだほうがいい。どうしてもさけてとおれないのが、家探し。これはとても大変だし、日本と異なることがあるので注意が必要だ。
長い文章を組み立てても発音がわるいとわかってもらえないし、やはり電子辞書を持参したほうがいいと思う。どんなに穏やかな性格の人でも「フランスに来ていいあらそいになった」という経験が必ずあるという。いいたいことも言えないと後になって「こんなはずじゃなかった」と落ち込んでしまうからだ。
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ちょっと前に心当たりのないメールが届きました。メールアドレスを言った覚えがないのでおそるおそる開いてみると、料理のレシピを紹介するものでした。私の大好きなレストランLe Florian ル・フロリアンのシェフが出ています。
レンヌにあるとってもおすすめのレストランです。とはいえ、数回しか行ったことはないのですが・・・ 以前は10人くらいしか入れない小さなレストランだったのですが、運河ぞいのモダンな建物に移りました。もう2年くらい行ってないのですが、8時ごろ食べはじめて、ふつうに食べても終わるのは真夜中。しかも「もう明日のご飯も食べられない」というほど量があるのに価格も安いというすごいレストラン。
手元にあるMichlin le guide rouge 2002年版にも載っています。星はついてないけれど、フォーク・スプーンが2つです。 Ravioles "sans pâte"写真のラビオリの作り方が写真入りで説明されています。cuisineAZ.comというサイトには、フランス国内やベルギーのレストランのシェフが自慢のレシピを紹介しています。
どうしてメールが来たのかは謎のままですが、楽しいメールなのでそのままにしています。それからもう2回配信がありました。Le Florianはランチもやっていますので、予約してどうぞ。
Restaurant "Le Florian"
11 rue Armand Rébillon
35000 Rennes
Tel : 02 99 14 25 14
このレストランでは、暖かいフォアグラをたのんでください。それまでフォアグラはパテのように冷して食べるものだと思っていたのですが、このレストランで「口の中でとろけるフォアグラ」の味を知りました。「これがフランス料理なんだ」と感激。おいしいです!
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このページの右下に人気BLOGランキング海外ニュース部門のロゴを置いてあります。小さいロゴですし、なんだかわかりませんよね。ランキングで上位をねらうつもりはないので、みなさんにお願いもしないでほったらかしにしていました。いったん、ページからはずしていたのですが、ランキングに参加している方たちが、ずっとクリックしてくれたのでまた最近もとにもどしました。
今朝友人からメールがとどきました。「タンザニアのことを知らせたいと言っても、誰も読んでくれなければあなたの言葉は意味がない」という内容でした。「ランキングで上位に表示されれば、それだけ見てくれる人が増える」とメールは続いていますが、本当にそうです。下のロゴをクリックいただければ、ランキングがあがります。一日一回有効です。
今回、映像のもつパワーを改めて感じたのですが、ペンにも言霊がやどっているはずです。水滴が石を穿つように表面上は何も変化はないでしょうが、まず、知ってもらうことが目的です。どのエントリーでもかまいませんのでどんどんご自分の意見を書いてトラックバックしてください。
こちらは旅行ブログランキングです。これから本来のブルターニュのことを書きます。
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タンザニアについてさらに調べてみた。この国はずっと貧困にあえいできたのかというとそうではない。本来穀物は自給自足できていたが、96年、2000年の天候不順で農業生産が落ち込んだ。だが、飢餓を深刻にしたのは天候ではない。
タンザニアの北に位置するケニア、ソマリアでも深刻な雨量不足による農業不作に見舞われたために、タンザニア北部の余剰穀物はほとんどが、不法にケニアに輸出された ジェトロアジア経済研究所
自分たちが食べられるはずの食糧が他の国に輸出され、政府には国内南部にある余剰穀物を民間市場から買い上げる資金もなく、国外からの食糧援助にたよりきりの状態なのだと、上記の資料は説明している。
問題はほかにもある。貿易の自由化がかえって農民たちの生活をおびやかしているとのレポートがあった。
SAP と貿易の自由化により、タンザニア では農業生産が向上し価格が上昇、ついては農民が安定収入を得られる想定されていたが、そのようなことはおこらず、食糧安全保障への全般的な影響は、「非常に否定的なものであった。農民の収入は減少し、同時にSAP 政策により、授業料や医療費用の徴収が再開されることとなった。農民たちは少ない収入の中から出費を余儀なくされ、農業に費やす資金や食糧難の際に必要な貯蓄も減少し、食糧の保障への危惧が増加した。」 貿易の自由化と食糧安全保障
貿易の自由化は、不在地主や多国籍企業という大規模農業者を優遇し、小規模農家を犠牲にすることによって成り立っているといわれる。SAP は国家の役割を弱体化させ、小規模農民が受け取る公的補助を減少すると同時に、企業に対して有利な経済環境を作り出した。多国籍企業は食糧作物より輸出作物、国内の食糧のニーズに合うことよりも利益のでる海外市場への輸出を優先する。 引用は上記と同じ
つまり、穀物もナイルパーチと同様に、より利益のあがる海外市場に売られてしまったのである。フランスだけでも昨年度2267トンのナイルパーチを輸入、900万ユーロ(12億6000万円)がタンザニアに支払われたことになる。全世界から獲得した外貨はいったいどこに消えたのか?
映画館ではあちこちからすすり泣きが聞こえてきた。でも私は泣かなかった。多角経営でどんどんのしあがってゆく企業家と、やせ細った一般国民のあまりの格差に心底怒っていたからだ。みんな同じようにこの地球に生を受けた。みんな精一杯生きようとしている。貧富の差があることはわかっている。だが貧者には生きることも許されないのか。自分に何ができるかわからない。ただひとりでも多くの人にタンザニアの人たちの状況を伝えたいと思いこれを書いた。(写真の女性はもうこの世にいない)。
参考文献
Hungry for Trade: How the Poor Pay for Free Trade (Global Issues Series (Zed Books).)John Madeley著 2001 Zed Books
上記で引用した「貿易の自由化と食糧安全保障」はこの本の翻訳
フランスではこの映画のDVDがすでに発売されている。
Le Cauchemar de Darwin
• Date de parution : 12 octobre 2005
• Éditeur : mk2
フーベルト・ザウパー氏のインタビュー記事 2006年1月1日発売の季刊『前夜』6号
タンザニアの日常生活 実際の暮らしを知ることが出来ます
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映画の中でテレビの生放送の音声が聞こえてくる。「タンザニアでは200万人が飢えている」と。大人たちにはHIVやエイズが蔓延し人口数百人の村で毎月15人くらいが命を失っている。それが現実だ。
子供たちは、一握りの食料をめぐって取っ組み合いのけんかをする。何しろ食べられなければ死んでしまうのだ。明日の見えない不安を紛らすのは魚を運ぶ籠である。どうするかというと、火で溶かしてシンナーのように吸い込むのだ。そうすれば、道端でもぐっすり寝ることもできるし、昨日あったつらい出来事も忘れられるから・・・
ナイルパーチの輸送には運賃が安く、たくさんの荷物を積み込めるという理由でロシアの航空会社が用いられている。タンザニアの空港に来るときには積荷はからっぽなのだが、ロシアから他のアフリカ諸国に武器を運んでいると、乗務員は重い口を開いた。そしてタンザニアで魚を乗せて世界に運ぶわけだ。
この魚がヴィクトリア湖に放たれたのは60年代のことだった。「タンザニアのナイルパーチの品質管理は完璧だ。この国のため、みんなもっと輸入しよう」とほかの国が応援してきたはずがこの有様だ。儲けたのは一部の企業家と武器商人たちだけだ。仕事を失い夢も希望も見出せない人々は「戦争になればいい」と口にする。
2004年、この映画は数々の国際映画賞を獲得している。欧州ドキュメンタリーグランプリ、パリ環境映画祭グランプリ、コペンハーゲン映画祭グランプリ、などなど。フランスでは3月に上映が開始されたが、メディアはアフリカの現状がよくわかったと書いている。「この映画を見てナイルパーチをこれまでのように飲み込むことは無理だ」Libération
以下その3につづく
ここでこの映画の紹介ビデオが2本見られる。 Voir la bande-annonce n°1をクリックするとビデオがはじまる。
Hubert Sauper 映画監督公式ホームページ
ここでもビデオが見られる。これが一番まとまっている。
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人は生まれる場所を自分で選択できない。私はたまたま日本に生まれた。そして今はフランスにいる。もしタンザニアのヴィクトリア湖のほとりに生まれていたとしたら、もうとっくに命は尽きていただろう。
昨晩、急にさそわれて見たドキュメンタリー映画DARWIN’S NIGHTMARE (フランス語題Le Cauchemar de Darwin)
で知ったタンザニアの現実はまさに地獄としか形容できないものだった。まったく予備知識もなく、ついていっただけだったが、見終わってからずっと頭から離れない。題名のように悪夢ならば目がさめれば終わりだが、人々の飢えには終わりがない。食べ物がなくて、毎日たくさんの人が亡くなってゆくのだが、その貧困の主な原因となっているのは、他の国から持ち込まれた巨大魚なのである。
もともとヴィクトリア湖は「ダーウィンの箱庭」と呼ばれるほどたくさんの生物が生息していた。湖のほとりに暮らす人々は魚を売れば十分生活できるお金を得ることができた。家族仲良く笑いながら暮らしていたのだ。もともといた魚は草食性のものが多く、藻を食べていた。そこに研究のためという名目でナイルパーチという魚が放流された。
それでも最初のころは、ナイルパーチを売ってひともうけできると喜ばれたくらいだった。加工するための工場ができて、そこで1000人の雇用も生まれた。ナイルパーチは飛行機で世界中に輸出され、フランスでも日本でも、そうとは意識せず食べているはずだという。(日本ではスーパーでの販売、ファミリーレストランで使用されるほかに、学校給食にも用いられている。)だがナイルパーチは肉食で、最大2メートル以上に成長する。この魚が食べつくしたせいで、ヴィクトリア湖にはほとんどほかの魚がいなくなり、藻などの植物が繁殖し湖は瀕死の状態なのだ。
そして、身の部分だけ加工され1日に500トンが箱詰めされる。残った頭や骨は販売されたり捨てられるのだが、その量が半端ではない。魚の残骸が大型トラックで郊外に運ばれる。それを焼却するには日に干してからのほうが都合がよいが、乾くまえにうじがわき、ガスが発生する。大きな鍋で腐った肉をゆで、油をかけて火をつける。真っ黒なヘドロとかわりはてたナイルパーチ。その作業に安い賃金で雇われているのは、もと漁師やその未亡人たち。異臭のなか、命を削る重労働が続く。両親を亡くした子供たちはストリートチルドレンとなるか、売春するしか生きる道はない。
以下その2につづく
参考資料
IUCN(国際自然保護連合)によるナイルパーチの影響
ナイルパーチは、1954年に、乱獲を原因とする固有種の漁獲量の激減を中和するために、アフリカのビクトリア湖に導入されました。この魚は、他の種を捕食したり、餌の競合を通して、200以上の固有の種を絶滅させました。ナイルパーチの肉は、他の魚よりも油が多いので、とらえたこの魚を乾かすのに、多くの木が燃料として切り倒されています。このために起こる浸食と排水は、流れ出す栄養分の量を増加させ、湖を、アオコとホテイアオイの侵入に無防備な状態にしてしまいます。これらの侵入は、湖での酸素不足をもたらし、多くの魚が死亡する原因となります。ナイルパーチの商業的開発は、地域の男女を伝統的な漁業や水産物の加工の仕事から立ち退かせてしまいます。この導入の影響は遠くまで及び、環境のみならず湖に依存している地域社会も荒廃させてしまいました。
ダーウィンの箱庭ヴィクトリア湖Tijs Goldschmidt著 1999 草思社
ナイルパーチの漁場ビクトリア湖の資源および環境保護 農林水産省
山釣り紀行の中にビクトリア湖の悲劇、ナイルパーチというエッセイがある。
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きのう突然、インターネットにアクセスできなくなりました。日本製のパソコンにフランスのプロバイダー、Club-internetで接続しているので、これまでにもWINDOWSの更新をしたりすると、動かなくなることがあったのです。そんなときはいったんそのプログラムを解除し、入れなおしていました。
ところが、昨日は再インストールしようとすると、「モデムが使用できません」というアナウンスがでて、途方にくれてしまいました。プロバイダーに電話してもなかなか通じないので、いったんコンピューターシステムを2日前に復元して、再度電話。4時間後にやっとつながりました。
「ADSL、2MGを使っているのですが、数時間前から使えなくなったのです」と私。「ええ。モデムの電源を切ってから、再接続してください」と男性。「自動診断でチェックすると、モデムに問題があるようです」というと「このところ、あなたはインターネットに接続しすぎています。使いすぎです。マダム。それが原因です」と答えが返ってきてあぜんとしました。「それでもだめなら、もう一度電話してください。マダ~ム」
言いたいことはいっぱいあったのですが、ずっと待たされて、電話代がだいぶかかっているのでそのまま電話を切って再挑戦。すると、接続できるようになりました。なんとか、予定通りメルマガを発行できそうでホッとしました。でも、ADSLのケーブル接続では、常時接続できないのでしょうか? フランスのこのClub-internet専用モデムに問題があるのでしょうか? 日本ではADSLを使っていなかったのでよくわからないのですが、常時接続できるはずですよね。
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中世ヨーロッパではお城だけでなく、街じたいが分厚い壁で囲まれていて人々の暮らしはこの壁の中でいとなまれていました。旅人たちはこの門から一歩外に出ると追いはぎに襲われる危険もありました。反対に戦争時にはこの壁が、いわゆる要となって、外敵の攻撃を防いだのです。
写真はレンヌに残る15世紀のPortes-Mordelaisesモルドレーズ門です。ここは門の外側にあたり、入るとすぐにカテドラルがあります。当時はほかにも門がありましたが、残っているのはここだけです。甲冑に身をつつんだ騎士たちが馬にまたがり通っている姿を想像してみてください。
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