スターウォーズ エピソード3を見終わってから考えているのだが、詳しく内容にふれられないので書くのをとまどっていた。それははハリー・ポッターと不死鳥の騎士団 にも共通することなので、ハリー・ポッターを例に挙げてのべてみたい。
この2つの作品には共通点がある。それは悪の力の強大さである。不死鳥の騎士団ではハリーの親友、ロンの兄パーシーが悪の力に屈し、家族との絆を絶ってしまう。父親が瀕死の重傷をおっても、母親を泣かしてもその決心にゆるぎはない。ハリーとチョーは前年のセドリックの死から立ち直れないのだが、悪の頂点にあるヴォルデモールはどんどん仲間をふやして勢いを増してきた。そして魔法使いたちを次々殺したり、刑務所にいれてゆく。そしてハリーの魔法学校でさえも締め付けが厳しくなりまったく自由がなくなる。なにしろ校長さえも解任され逃走するほどなのだ。
ハリーは名付け親シリウスの危機を知り、友人たちと一緒に救出に出かける。最終的にはヴォルデモールが死んで平和が訪れるがハリーはシリウスの死にうちのめされているというストーリーだ。(まだ15歳の彼らが勝者になって、大人の魔法使いがあっけなく死んでゆく)。ここで考えてほしいのは命についてである。友人や名付け親の死は耐えられないが、悪人ならためらいなく殺してもいいのか? ハリー・ポッターを書いたローリングさんの意図はわからないが、たぶん善悪の対比を際立たせようとしただけなのだろう。だが、殺すことがあまりに自然なので、誰もあらためてその意味を考えたりしないだろう。
フランスではアニメ「北斗の拳」があまりに暴力シーンが多すぎると抗議が殺到し、90年代はじめにはすべての日本アニメが放送禁止になっていたのだ。それに比べると今のテレビゲームや映画の殺人シーンのリアリティーには大人でさえも目をそむけることがある。世界では毎日死者が数十人と報じられている。でもそれに麻痺してしまって今では誰もニュースに驚かない、これでいいのだろうか?
ルーカス監督はスターウォーズについて「最初の三部作はベトナム戦争の最中に構想されたが、新三部作はイラク戦争の影を感じてもらえると思う」とインタビューに答えている。このスターウォーズのシリーズでも善悪いりみだれ、死が新たな死を生み出し戦いは続いてゆく。テロ行為は許されないから、容疑者や独裁者はどんな扱いをしてもよいのか?
数日前、イギリスの大衆紙「サン」はフセイン・イラク元大統領が拘置所内で下着姿になっている写真を公開した。誰だって自分の下着姿を公にしたくはないだろう。特にアラブ諸国では他人に素肌を見せない習慣なので、その波紋は大きくて当たり前だ。これまでにも書いてきたが、人間の尊厳をないがしろにする行為は反感を招くだけである。またコーランを侮辱したという報道で世界のあちこちから非難があがっているが、もし本当だとしたら火に油をそそいだようなものだ。
ル・モンド・ディプロマティークにCIAによる拷問の海外委託という記事がある。アメリカは自分の手をよごさなければ、何をしてもいいと思っているのだろうか? 2人のフランス人ジャーナリストは捕虜になったままだし斎藤さんの生死さえもわからない。イラクでは23日午前、国家安全保障担当省「治安作戦最高司令室」室長が銃撃され死亡、イラク駐留米軍は「テロリスト」285人を拘束した、と発表した。読売新聞 これが普通であるはずがない。本当に平和な世の中だと言えるのだろうか?