« 2006年2月 | トップページ | 2006年4月 »

2006年3月の記事

2006.03.31

投稿記事から写真が消えました

  セキュリティーが強化されたことはうれしいのだが、使い勝手が悪い。コメント入力の注意書きが勝手に英語になってしまったので、日付を日本語に訂正すると注意書きも日本語になった。でもこれを変更するのに2時間。反映する途中で止まってしまいどうにもならなかった。

  さっき新しく投稿したら、写真が消えてしまった。いったん画面上で見えたのにどこへ消えたのか。もう一度ダウンロードしても保存ボタンを押すともうどこかへ消えている。どうなっているのかな?

    追加

  あとから付け足した文章も消えているので、保存の更新に問題があるようだ。

  

| | コメント (0) | トラックバック (0)

CPE(初期雇用契約)抗議デモに関する日本の報道

Anticpe
  日本の各新聞が報道したCPE(初期雇用契約)抗議デモ報道を読んでみた。

フランス:新雇用促進策に抗議運動 大統領選挙に影響も 毎日新聞
雇用デモ騒然、仏首相さらにピンチ 大統領が政治決断も 朝日新聞
仏抗議デモ、過去最大規模105万人…800人を逮捕  読売新聞
仏大規模ストで105万人参加、800人逮捕 産経新聞
仏の雇用紛争で全国スト入り オペラ座も臨時休演 朝日新聞
仏高校生ら線路を「占拠」 雇用紛争、交通寸断 朝日新聞

  レンヌのことなどほとんど出てこない。いまや大学封鎖だけではなく、中学や高校でも教師のスト参加、生徒たちによる学校閉鎖も行われているのである。France2の夜の特集で数人の大学生にスポットをあてて長期取材をしていた。レンヌのことも出てきた。「暴力はふるわないよう呼びかけている」と主張しているが数万人のデモをコントロールすることは不可能だ。写真はCRS(機動隊)に生タマゴ、瓶、石、発炎筒などを投げつけその様子を写真に撮っている若者達。そのせいでCRSやカメラマンも怪我をしている。

  今日の夕方ブルターニュ広場を通ったが広場の東側の銀行や10軒近い店舗はどこもガラスを割られていて、板が打ち付けられていた。物理的に営業できない店舗もある。28日のデモは約2時間レンヌ駅が占拠されたが、その後昨日、今日は朝の通勤時間をねらって幹線道路が封鎖され、大変な混乱を引き起こしている。CPE(初期雇用契約)抗議デモが地方経済に打撃を与え、これがさらに雇用をおさえる悪循環につながりそうである。フランス語の関連記事を続きに貼り付けておく。


続きを読む "CPE(初期雇用契約)抗議デモに関する日本の報道"

| | コメント (7) | トラックバック (0)

2006.03.30

顔にぼかしを入れる方法を教えてください

  公開したい写真がたくさんあるのですが、個人を特定できるようなものはお見せできません。目の部分にぼかしを入れる簡単な方法を教えてください。ソフトはphotoshop5,5を持っています。いろいろ試してみたのですが、機能がたくさんありすぎて使いこなせません。

| | コメント (6) | トラックバック (0)

2006.03.29

暮らしたい都市・レンヌの現状 

Cpe7
    このエントリーはレンヌ・催涙弾の雨が降るの続編なのではじめにそちらからお読みいただきたい。

  知らぬ間に人が集まってきた。ざっと見渡して3000人くらいいるだろうか。携帯電話で連絡を取り合って町を移動しているのだ。Cpe11レンヌの中心地は15分くらいで歩いてゆけるほど狭いので、あっという間に野次馬も増える。

  みんな場慣れしている。レンヌでは数年前から若者たちとCRS(共和国機動隊)との乱闘が繰り返されているし、ここ数週間は数日おきにこの写真のような場面に町の至る所で遭遇するのだから・・・ 警察の車がやってくるとブーイングをあびせ、去ってゆくと拍手と歓声がひびく。
Cpe10
  CRSを遠巻きに見ながらビールやウイスキーをラッパ飲みしヤジを飛ばす者、ゴミ箱を集めてきて油をかけ火をつけたり、黙々と石をはがし投げ続ける者もいる。中には過激な行動を非難する光景も見られるが焼け石に水。毎回逮捕者が出るのだが、たいていの若者たちはタイミングを計って、うまく走ってすり抜ける。まるで運動会でもやっているかのようだ。

  「政府がCPE法案(新雇用法)を撤回するまでやる」と言う男性に質問をぶつけてみた。「そこまで言い切るのなら、今日のような統一ストライキをどうしてずっと継続しないのか」と。「君のいうとおりだ。それが出来ないからここまで長引いている」という答えだった。
Cpe9
  市内はデモや火災で交通網が寸断され、商店は毎日夜のうちにやられないかとおびえている。市民は騒音、火事、催涙弾の攻撃にさらされていて、日々サイドミラーのない車が急増中だ。(土曜日の夜、タボール公園近くの住宅街で小グループが泥酔し、その道路にとめてあった全部の車のサイドミラーをへし折ったと逮捕された。そのまま逃げていたら逮捕されなかっただろうが、翌日の朝まで車の中で寝ていたのだという)。これが毎年フランスで暮らしたい都市の上位に選ばれているレンヌの現状だ。 

  植えられている黄すいせんがむしり取られ道路に大量に捨てられていたので拾ってきて花瓶にいけた。もしCPEに抗議したいのならパリの国会前で抗議行動を起こせばいいではないか。自分たちの故郷をなぜ抵抗なく破壊できるのか。この行為のつけで来年の税金が上がるのは目に見えている。
  

| | コメント (6) | トラックバック (1)

レンヌ・催涙弾の雨が降る

Cpe1
  今日は雨が降ったりやんだり、変な天気だった。午前中CPE(初期雇用契約)に反対するデモに参加した人たちもたたきつけるような雨の中、時々雨宿りしつつ歩みを進めていた。いつもは高校生や学生が中心なのだが、今日は会社員や定年退職者もデモに加わったので参加者も多くレンヌだけでも30000人以上ということだった。

    日本人の友人と、「このメンバーなら学生が暴走するのを止めてくれるかもしれないね」と話した。ずっと付いて歩いたわけでないので詳しいことはわからないが、テレビ局のカメラマンに聞いたところでは、一部のデモ隊が国鉄レンヌ駅を占拠。それでも大した被害なしにデモは終了したようだ。問題は解散後である。いつものように暴徒化した若者達が店舗のガラスを割ったりして5時ころからCRS(共和国機動隊)とブルターニュ広場でにらみ合いを続けたようだ。すでにここでも催涙弾が使用されている。
Cpe3
  私は用事をすませ5時半ごろ家に帰った。そのすぐ後、市役所前広場が騒がしくなってきたと思うと、機動隊が隊列を組んで走ってきた。あわててカメラを持って外に跳び出る。それから午後8時くらいまで学生たちは旧高等法院の広場で引いてはうち寄せる波のごとく、CRSを挑発する。手出しできないことを承知しているので、わざと近寄りカメラを向けたり、空き瓶や石(15センチ角くらいある道の敷石をはぎとって)を投げつけて相手の出方を伺い、CRSが走り出し催涙弾を発射すると距離を置くといったことが繰り返される。

  塀の上に上ったり、先回りしながら写真を撮ることに専念したので、幾度となく催涙弾を1メートルくらいの至近距離で吸い込んだ。2枚目の写真を撮ったときはちょうど塀の上にいた。周りにいた若者たちは一目散に逃げたのだが、私はそのままずっとシャッターを切っていた。階段を登ってきたCRSは私の真横で隊列を組んで止まった。これでは一緒に若者に石を投げつけられるかもしれないと覚悟を決め、いざという時クッションがわりになるようにとコートのフードを頭に被った。「大丈夫か。そこでじっとしていろよ」と隊員のひとりに肩を叩かれたので「大丈夫」と答え、そのまま写真を撮り続けた。すぐ側にテレビ局のカメラマンもいたので、怪我をしたら全国放送されたかもしれないが、幸いにもピンピンしている。
Cpe4
  学校の先生、企業の社長、ジャーナリストなど、いろんな人に話を聞いた。レンヌでデモに便乗して暴れるLes Casseurs(破壊を行う者、挑発者)と呼ばれる若者のほとんどが、レンヌとそのまわり50キロくらいに住む若者達だそうだ。(数人はマルセイユやパリから来ているという)。警官やCRSはブルターニュじゅうからレンヌに応援に来ているのだそうだ。その費用だけでも膨大なものだ。

  Les Casseursの幾人かと話したのだが「俺たちがはじめたわけじゃない。政府が頑なだから悪いんだ。マスコミは覆面をして顔を隠しているとか言っているが、そうじゃない。催涙弾を防ごうとしているだけで、こそこそしているわけではない。最後までとことんやる」と言うのだ。

  その言葉どおり、あちこちで火が上がり消防車もやってくる。催涙弾が雨のように降り注ぎ、かすみがかかったようになる。煙にむせて咳きがでる。涙は出なかったが、あまりに長時間現場にいたのでとても気分が悪い。日本でいたらこんなこと知らずにすんだことだろう。残念ながらこの騒ぎ、いったいいつまで続くのか検討もつかない。
  
  暮らしたい都市・レンヌの現状に続く 

| | コメント (7) | トラックバック (0)

2006.03.25

レンヌで学生が大学閉鎖 その11 続営業中のデパートが襲われた

  3月23日のデモでギャラリーラファイエットに乱入する学生たちの写真がAFP・BBNews(日本語)に数枚のっていた。あまりに過激である。まさかここまでやったとは、これを見るまで想像していなかった。木曜日は自分の目で見ていなかったので、実感がなかったのだが、これらの写真を見て、怒りがこみあげてきた。

  AFP・BBNewsでは写真を自分のブログに引用できるので、新しくブログLes Cahiers Blancsを作った。とにかく見てほしい。写真はクリックすれば大きくなる。

  テレビでは盛んにデモ参加者とLes Casseurs(破壊を行う者、挑発者)は異なると言っている。だがデパートに押し入ろうとしているのは少人数ではない。消火器を噴射されてもおかまいなしだ。CPEに反対するデモが、どうして営業中のデパートを襲う必要があるのか? このような理不尽な行動は厳重に処罰するべきだ。

  レンヌ・催涙弾の雨が降るに続く

| | コメント (4) | トラックバック (0)

アイルランド・聖パトリック

st_p
  3月17日はアイルランドの守護聖人・聖パトリックの祝日Saint Patrick’s day で、毎年アイルランドはもとより世界中で様々なイベントが開催される。ダブリンではすっかり有名になったパレードを見てバーで乾杯となるようだ。この日は聖パトリックの命日と伝えられているのだが、はっきりとした記録はなく西暦461年ごろだと推測されている。

  Patricius Magonus Sucatus(古アイルランド語ではPádraig)はウエールズ生まれ。16歳の時に海賊にさらわれアイルランドで6年間奴隷としての暮らしを強いられたが、やがて逃げ出しウエールズに戻る。その後フランスで学んだのち、アイルランドに赴きキリスト教を布教したのである。カトリック豊島教会の聖パトリックについてという解説があるので彼の生涯についてはここをまずお読みいただきたい。私は彼がフランスのどのような場所で学んだのかを知りたかったのでそれを調べてみた。

  彼はフランス中央部のAuxerre(世俗から自己を隔離する陰修士的な性格が強かった)やカンヌの南にあるÎles de Lérinsの修道院(陰修生活と共住生活の中道的形態)で研鑽を積む。
sl_1
  いよいよアイルランドに帰る日がやってきた。彼はダブリンの南にあるThe Hill of Slaneに立つ。右の写真がその全景である。ここは下調べできていなかったのだが、ミニバスツアーで訪れた。上の写真はthe Hill of Taraに立つ聖パトリックの像である。

  彼は「三位一体」を民衆に説明するのにシャムロック(三つ葉のクローバー)を用いた。今ではシャムロックはアイルランドのシンボルに用いられるようになった。アイルランドにあふれるエメラルド・グリーンはこの青々としたシャムロックの葉の色である。

    Downpatrick Cathedralには聖パトリックの墓石が残っている。1183年に小高い丘の上にベネディクト修道院として建てられたのが発祥で、現在はアングリカン・チャーチとなっている。「聖パトリックの祝日」には、たくさんの人がここを訪れるそうだ。

聖パトリック・センターThe Saint Patrick Centre

| | コメント (6) | トラックバック (0)

2006.03.24

レンヌで学生が大学閉鎖 その10 営業中のデパートが襲われた

  朝11時のバスに乗ってレンヌ郊外に行っていた。その時すでに駅から数百メートルが封鎖され、デモのため集まった群衆であふれていた。そして午後6時すぎにレンヌ中心部に帰ってきた。レピュブリックも市役所前も変わったことがないと胸をなでおろした。

  ところがそのすぐ横、デパート、ギャラリーラファイエットの前の駐車場に人垣ができていた。CRS(共和国機動隊)が若者を追いかけている。映画館の前にもたくさんのCRSがいる。その時CRSが一人の若者をひったてて私の歩いている方向にやってきた。私の立っている場所からわずか2メートルの位置に座らせる。ごく普通の学生のように見える。顔を鼻血が流れていた。何か聞いているがよく聞き取れない。「学生だ」と答えたのだけ聞こえた。

  数分間見ていたのだが、約束の時間がせまっていたので先を急ぐ。そこから約50メートルほど歩きブルターニュ広場にさしかかる。そこで私は信じられない光景を見た。広場がすべてCRSや警察の大型バスや車両で埋め尽くされている。少なくとも50台はとまっていた。広場は完全に通れないので白バイが出て交通整理をしている。こんなに警察の車が数珠繋ぎになっているのをこれまでに見たことがない。通行人はみんなカテドラルの方向を向いている。そちらから催涙弾を発射する音が聞こえ、かすかににおいも漂っている。

  男性に何があったのか聞いてみた。「学生が暴れてギャラリーラファイエットや不動産家も閉まっている」ということだった。「一部の人間が暴走しているが、彼らはレンヌ以外から来たのか」と質問してみた。「いやレンヌの学生たちだ。何千人も集まればその中には凶暴なやつらもいて当たり前」という答えだった。8時すぎに帰宅する時にブルターニュ広場を通った。叩き割られた車のガラスがあたり一面に飛び散っている。それを清掃車が吸い取ってゆく。サイドミラーを引きちぎられた車が何台もあった。

  あとでFrance2の8時のニュースをビデオで見た。何と、ギャラリーラファイエットが被害にあったのだ。メイン入り口のガラスのドアが粉々に割れている。たくさんの買い物客で賑わう営業中のデパートを襲い、営業中止においこんでしまったのだ。

  火をつけられ炭化した無残なゴミ箱が至る所にころがっている。レンヌでは午後ずっと騒ぎが静まることはなかったようだ。今午後11時をすぎたところだが、叫び声が時折聞こえる。もうたくさんだ。

  その11に続く

| | コメント (4) | トラックバック (1)

2006.03.22

中国製のコピー商品が氾濫するフランス

    数日前テレビでいかに中国製のコピー商品が出回っているか、そしてそれをどう取り締まるかという内容の番組をやっていた。イタリアで大量にさばかれるフランスのブランド商品のコピー。販売している人間をイタリアとフランスの取締官が連携して逮捕し、ハンドバックを押収し販売できないようすぐにナイフで切り裂いてゆく。

  今や大量のコピー商品がフランスに押し寄せている。それはハンドバックや時計などの高級品とは限らない。衣料品、家電、文房具など、どれも見た目が巧妙にできているのですぐに見分けるのはむずかしいのだ。例として取り上げられた携帯電話は本体だけでなく電池や付属品まですべてにせものだった。

  次に登場したのは子供のおもちゃ。本物と比べると粗悪品で壊れやすい。子供が怪我をしたり壊れた部品が喉に詰まり窒息する可能性がある。だが、価格が数分の一なので案外売れているのだという。フランスのおもちゃ業者は商品開発にあたり、テストをくり返し強度を確認している。しかしその製品工場は中国にある。人件費が安いからだ。工場から製品の情報が外に流出することもあるので管理は厳重だ。信頼できる業者と取引するしか方法はないようだが、それを見極めるのは至難の技。

  次にフランスの税関の職員が中国に飛び、現地の様子を視察する。中国も何もしていないわけではない。港で輸出されようとしているコンテナを検査して水際で止めようと努力を行っている。実際に中国製品もコピーされて害をこうむっているからだ。輸出の方法も巧妙でいくつかの国を経由してフランスに送られるのである。

  見本市にもコピー商品は並んでいる。「これはフランスの商品のコピーでしょ」とフランスから出張してきた取締官。「名前も異なるし違う商品」と開き直る業者。中国警察との協力捜査で悪質な業者は逮捕されてゆく。大型デパートの売り場にはさすがに昔のようにコピー商品は並ばなくなったが、観光客を見つけると店員がこっそり耳打ちする。「もっといい物があるから」と手招きするのである。そこで隠しカメラをしこんでついて行くと細い通路から別の部屋に案内される。そこにはコピー商品が山のように積まれていて、それを購入するたくさんの客がいた。

  ほかにもありとあらゆる品がコピーされている。ブランド商品だと思って買ったバックがすぐに壊れても、安い価格で購入したのであれば仕方ないだろうが、本物と酷似した粗悪な医薬品などを誤って服用すれば健康を害する危険性もある。この番組を見終わって自分のまわりを見渡してみた。これもコピーかと疑えばきりがない。大変な時代になったものだ。

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2006.03.21

レンヌで学生が大学閉鎖 その9 3月21日、人文字

CPE
  21日午前11時、市役所前に学生たちが集まってきた。やがて人文字があらわれた。でも一部しか見えないので何と書いてあるのかわからない。
CPE1
  人文字になって座っているのは高校生だろう。楽しそうに友達たちと話をしている。しばらくすると道路が封鎖されCPE(初期雇用契約)に反対するデモ行進がはじまった。すごい数のジャーナリストたちが先頭に陣取ってカメラを向けている。群集を撮るには少しでも高いところに登れと教えられているので、巨大な植木鉢の上によじ登る。横を見ると、たくさんのカメラマンで鈴なりになっている。CPE3 午後1時のTF1のニュースにはすでにこの映像が使われていた。デモ行進にはRennes第二、続いて第一大学が後に続いている。Nous sommes tous des casseurs「我々すべてがcasseursである」というスローガンがレンヌ第二大学の掲げる旗に書かれている。les casseursとは「破壊を行う者、挑発者」の意味。いつも始まりはおとなしいのだが数時間後には乱闘になってしまうのだ・・・
 
   追加情報

  午後3時前、デモ隊が帰ってきた。20くらいのゴミ箱を無断で持ってきて、それを太鼓代わりにたたいている。ただでさえゴミ箱は火をつけられなくなっているのに、勝手に持ってくるな!! 

上の人文字、NON CPEと書かれている。これは市役所側から見ないといけなかったのだ。従って写真はさかさまになっていて、CとNの部分だった。

  その10に続く

| | コメント (12) | トラックバック (1)

2006.03.20

アイルランド旅行記 その2 総まとめ

du22
  ダブリンの町はとてもカラフル。特に店舗は赤、黄色、緑、青などの原色が用いられている。それとレンガが多く用いられていた。下の写真がその一例。何だかどこか違う国に迷い込んだような気がした。どこだったかずっと考えていてやっと思い出したのがピンクシティーと呼ばれるインドラジャスタン州の州都JAIPURジャイプールだった。ジャイプールの写真はここ(India photograph)。え。全く違う。あくまでも私の記憶の中のお話ですから。改めてインドの写真を眺めると懐かしかった。 

  参加したバスツアー

  冬場はあまりツアーがないのではと心配していたが、ミニバスツアーはおすすめ。運転手が運転しながらガイドをしてくれる。申し込みは観光案内所で1日、2日前でOKだった。ただ3のツアーで一緒になった日本人男性が2に申し込んで参加したら、規定の3倍もの人数をとっていて急遽別のバスを手配するという初歩的ミスがあったそうだ。そのため予定の日程をまわれなかったという信じられないハプニング。

   1)A CELTIC JOURNEY 大型バス
     Hill of Tara、Boyne Valley、Newgrange
   2)Wicklow & Glendalough ミニバス
     Wicklow、Glendalough
   3)Celtic Experience ミニバス
     FourknocksMonasterboice、Mellifont Abbey、the Hill of Slanethe Hill of Tara
    4)Ghostbus 行き先不明の大型ミステリーバス
     夜8-10時までダブリン市内の数ヶ所をまわりながら、小説になった場所や実話のある怖い場所をめぐる。Ghostbusはどこで停車したのか土地勘がないのでさっぱりわからなかった。今リンクを貼ろうとしたら行き先の地図が付いているではないか。外国人はあらかじめ予習して行ったほうが楽しめると思う。私がバスに乗り込むともう席がうまっていて最前列しか空いていなかった。おかげて、案内人が首をしめてくれたりして、スリル満点だった。
du11
   ダブリンの観光 (個別の情報は観光案内所のサイト参照)。番号は行った順番である。

  1)Dublin Writers Museum アイルランドの作家の資料館
  2)National Library of Ireland  3が月曜日は休みだったので James Joyce展見学
    3)National Museum of Ireland - Archaeology and History 予想外の充実した内容で2度行った
  4)Trinity College ケルズの書
  5)Saint Patrick's Cathedral  スウィフトの墓あり
  6)Christ Church Cathedral  ちょうど演奏会で男性コーラスを堪能
  7)GUINNESS® STOREHOUSE ギネスビール博物館 ジョッキ1杯飲めるが入場料14ユーロは高い。ネットで購入すれば割引有り。
  8)General Post Office 聖パトリックの記念切手購入 ク・ホリンの像
  9)The National Gallery of Irelande 帰る日の朝駆け足で見学

  持っていった本

  1)図説 アイルランド ずっと行きたいと思っていたので持ってきていた。でも自分でも忘れていてユーロスターの中で読んだ。写真も多く、歴史的な背景の説明もしっかりしている。ぜひ一読を。
  2)ガイドブック A05 アイルランド 私が持っていたのは01-02年版。使う機会があってよかった。基本的データは変わっていないがまだ通貨がポンドなので少々とまどった。

   帰ってから読んだ本

  1)街道をゆく〈30〉愛蘭土紀行 1
  2)街道をゆく〈31〉愛蘭土紀行 2

  司馬遼太郎さんおなじみの「街道をゆく」シリーズの2冊。旅の前に読んだというアイルランドの作家と出会った人物の描写がメイン。訪れた場所の記述があまりないところが少々物足りなかった。それでも最後の言葉が印象的だった。「いまも旅路の鈴が鳴りつづいて、どうやら当分やみそうにない。旅をしたというより、越してきた山河が書物のように思われて、そういうあたり、ふしぎな国だった」。もしブルターニュを訪れたらどのような紀行文を残したことだろう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006.03.19

レンヌで学生が大学閉鎖 その8 3月16日、夜の乱闘 続報

    前のエントリーを補足する木曜日の夜のもう少し詳しい情報がはいった。午後11時ごろから数百人が町のあちこちに出没。鴨が喜ぶような寒さ(冷え込んでいることのたとえ un froid de canard)にもかかわらず「俺たちは疲れてないぞ」と叫びながらあちこちのゴミ箱に火を放っていった。

  12時ごろ夜になって最初の催涙弾が放たれた。若者たちとCRS(共和国機動隊)は鬼ごっこさながらに行き先を変えながら次第に市役所前広場に接近してきた。そして火炎瓶が市役所の窓めがけて投げられた。火炎瓶をつくった人間は少したってから取り押さえられ翌日10ヶ月の禁固刑が言い渡された。

  午前2時、川沿いに場所を移動しながら若者達の抵抗は続いた。中央郵便局の裏手にあたるRue Jules-Simonでゴミ箱や板でバリケードを築き火をつけたのだ。幸いにも消防隊員が火を消し止めたので建物に飛び火することはなかった。若者たちは手当たりしだいにいろんなものを投げ続けたのだが、背中に背負っている空き瓶もつきる時が来た。4時すぎにもこぜりあいがあったが5時ごろには長い夜も終わり、やっと機動隊も引き上げることができた。

   その後のフランスの動き

  18日、フランス全土で50万人(警察発表)から150万人(主催者)のCPEに反対するデモがあった。ね式(世界の読み方)ブログのCPE 関連クリップ、50万人を越す参加者に主要記事がまとめられている。

  パリでは大学の封鎖に反対する大学生たちもいる。
  Le Mondeの"Juste contre le blocage"(写真と音声)

    SOS Facs bloquées : étudier est un droit 上に出てくる学生が14日につくったBlog

  その9に続く

| | コメント (2) | トラックバック (1)

2006.03.18

パリ行き航空券ほかプレゼント

  今年からフランス映画祭がリニューアルされ、会場は東京と大阪になりました。3月15日から19日まで開催中です。 フランス政府観光局からパリ行き航空券カンヌのホテル宿泊券「3.14」に4泊がプレゼントされます。

  チャンスは3月31日まで。簡単な質問に答えるだけなので今すぐ応募しましょう。応募はこちらからどうぞ。

  フランス映画祭 2006公式ページ

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2006.03.17

レンヌで学生が大学閉鎖 その7 3月16日、夜の乱闘

nu
  夜12時すぎからさらにひどい状態になって時折光が闇に光る。ガラスの割れる音、爆発音が絶え間なくこだましている。窓からのぞくと騒いでいるのは100人たらずのようだ。(私の住まいからは広場の一部しか見えないので想像するしかない)。女性のかんだかい声もまじっている。

  12時35分、なんだか室内でも息苦しくなってきた。(あとから考えると催涙弾の影響だった)。市役所前広場にCRS(共和国機動隊)がおどり出て、いっせいに催涙弾が発射された。若者たちが拘束されて連れてゆかれる。テレビ局のカメラマンがそれを撮影している様子が見えた。写真は窓を開けて身を乗り出し自宅から撮ったものだ。右端が2人の隊員が若者を連行しているところである。中央に透明の盾を手に歩いているCRSの姿もある。(右手前の黒い部分は壁)。

    私もカメラを持って写真を撮りに行こうかと廊下に出たのだが下に降りるに従って催涙弾の煙が充満していて喉がおかしくなったので階段の途中で引き返した。建物の中でさえダメだと感じるくらいだから、これはそうとうな量の催涙弾が使用されたようだ。

  やっと騒ぎはおさまったかのように思えた。ところがこれはいたちごっこのようなもので、CRSが遠ざかると逃げていた若者たちはどこからともなく戻ってくる。1時すぎになるとまたしてもロックコンサート並みの煩さとなる。異なるのはガラスの割れる音が加わっていることだろうか。1時半ごろ、また数十発の催涙弾が軌跡を描きながら落ちてゆくのがはっきり見えた。闇の中だと破裂する際にまるで花火のように火花が散るものだとわかった。煙であたりが白くかすんでゆく。これでは防弾マスクでもないと外には出て行けない。

  午前2時。まだ話し声は聞こえるがたぶんこれで今晩は終わりだろう。そこにいたのはたぶん大学生だろうが高校生もまじっていたかもしれない。午後8時ごろ、すでにガラスの破片があたりじゅうに散乱していたので、明日の朝は掃除が大変だろう。若者たちは瓶を投げるだけなのだから・・・
  
      追加情報

  昨日の夜、市役所前広場では学生たちはdes cocktails Molotov火炎瓶を投げたという。光が見えたのは火炎瓶だったのだろう。レンヌでは20人以上が身柄を拘束された。ショーウインドーを破損された店舗や傷つけられた車が多数あったようだし、住宅火災もおきたようだ。私は机に向かって仕事をしていてずっと窓から眺めていたわけではない。でも動きがあれば叫び声や爆発音が聞こえるので、窓から外を覗くわけだ。昨日ここに書いたことはすべて自分の目で確認したことばかりだ。

  パリではカルチェ・ラタンを舞台として学生たちとCRSが激突し、多くの店舗が襲われている。極右政党の青年部Front national de la jeunesse (FNJ)の 187人が捕まっている。車がひっくり返され燃やされている映像をテレビで見た。またル・マン、サン・ブリユー、モルレー、アンジェ、リモージュの駅で7便のTGVが遅れ、4本のローカル列車が運行を中止した。明日もデモが行われるので、混乱が予想される。

  Des heurts violents à Paris et Rennes Ouest-France du vendredi 17 mars
  Des militants d'extrème-droite interpellés

  その8に続く

| | コメント (6) | トラックバック (0)

2006.03.16

レンヌで学生が大学閉鎖 その6 3月16日、市役所前広場

cpe
  レンヌではまだ大学封鎖が継続中だ。今週はじめの全国の動きはfenestraeのCPEの仏学生の運動、月曜になってさらに活発化に書かれている。

  16日午前大規模なデモがあって、昼ごろには市役所のあたりは静かになっていた。午後1時ごろ窓から外を眺めると、市役所の2階部分のバルコニーが占拠され、反CPEの垂れ幕が下がっていた。午前中からずっとあったのかどうかはわからない。しばらくすると幕もなくなり、広場には誰もいなくなった。1時半ころにやってきたCRS(共和国機動隊)の車が10台くらい駐車していただけだった。

  1時45分。そこへ学生たちが「ワー」と鬨の声をあげながらなだれ込んできた。車の中から催涙弾がわずかな時間で10発ほど発射された。写真の白煙がそうである。学生たちが逃げようとしている様子がわかるだろう。そして私の住まいから10メートルくらいの場所で炸裂した催涙弾の煙が上がってきた。ついに、私は自宅にいて催涙弾を吸い込むはめになった。赤ちゃんのいる家庭はこんな状況になったら大変だ。

  学生たちが何か投げていてガラスの割れる音が聞こえている。10分くらいでCRSの車は移動していなくなり2時半現在、若者たちは広場に座り込みタムタムなどたたいてのんびり休息しているように見える。このままでいくと先週と同じようなことになりかねない。すでに別の場所で何か起きているかもしれないがわからない。


      追加情報

  今日はフランス中で高校生がデモを行ったのだ。150000人(警察発表)もしくは500000人(主催者発表)ということだ。レンヌでは5000~15000人が参加。午後6時から8時の間に町のあちこちで火の手が上がった。ちょうど6時半ごろリベルテ通りの真ん中で火が燃えているのを見た。そのせいで家路につく車が大渋滞していた。用事をすまして8時すぎにそこを通ると焼け焦げた金属片が道路をふさいでいた。それにCRSの大型バスが何台も物陰に止まっていた。いったん食事をして夜に備えているといった重々しい雰囲気だった。

  レピュブリックのバス停前付近でも数ヶ所ゴミ箱の残骸がころがっていて、通行人の顔もくもっている。市役所前広場には割れたガラスが点在し、オペラ座のコンサートも中止になった。楽しみに集まってきた観客たちはため息をつきつつ去ってゆく。

  今午後10時だが、いったん静かだった町に時折若者達の叫び声が響いている。そう書いている間にもホイッスルやら金属音が大きくなってきて叫び声も聞こえる。これからまた騒ぎになるのだろうか?「サルコジ、殺せ」と叫んでいる。これは誇張でも何でもなくありのままのフランスなのだ。続きにはFrance3のニュースを貼り付けておく。

   その7につづく

続きを読む "レンヌで学生が大学閉鎖 その6 3月16日、市役所前広場"

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006.03.15

トリニティカレッジとソルボンヌ

tri
  今回のアイルランドの旅でどうしても訪ねたかったのがダブリンのTrinity Collegeトリニティ・カレッジ。目的はThe Book of Kellsケルズの書をみることだ。はじめに2日続けて日帰りのバスツアーに参加したので、ここへ行ったのは旅の中盤になってからだった。

  徒歩で数分の所に泊まっていたので、バスツアーから帰って先に売店だけ覗いた。いやあ。舞い上がってしまった! この旅、長年の想いがこもっていて毎日興奮の連続。ずっと血圧が下がったことはないだろう・・・ そしてやっとThe Book of Kellsが展示されている部屋へ足を踏み入れた。

  いやその前にたくさんのパネル展示を見学。The Book of Kellsの各ページ(もちろん一部だけ)が2メートルくらいの大きさに引き伸ばされているので、これまで知らなかった細部のシンボルがはっきり見えた。ビデオがいくつかあって、製本の様子、文字を書き込んでいるところなど、1回で飽きたらず何回も見た。

  そして少し薄暗くなっているガラスケースの中にThe Book of Kells ケルズの書(4巻に分巻されたうちの2巻)とBook of Durrow ダロウの書(8世紀)、そしてBook of Armagh アーマーの書(9世紀)の4巻が展示されていた。いろんな人が入れ替わり立ち替わりやってきては去って行く。私は気がすむまでガラスケースの周りをグルグルまわっていた。

    世界一美しいと言われているLes Très Riches Heures du Duc de Berry ベリー公のいとも優雅なる時祷書を前にしたときも、まさか実物が見られるとは思っていなかった。ほかにも奇跡的に保存されている本をたくさん見た。Mont-Saint-Michelモン・サン・ミッシェルの蔵書を保管しているAvranches市役所内の図書館も素晴らしかったし、ルーブル美術館のPARIS1400も忘れられない。旅の終わりにたちよったロンドン大英博物館にあるThe Paul Hamlyn Libraryの美しさも息をのむほどだ。

  階段を登るとトリニティ・カレッジの心臓ともいえる図書館だ。(写真はTrinity Collegeで購入した24ページのカラー本)。丁寧にほこりをはらっている館員、そしてアイルランドのユーロコインやギネスビールにもデザインされているアイリッシュハープThe Brian Boru harpもあった。しばらく木のベンチに腰掛けて本を眺めていた。戦乱を潜り抜け、宗教戦争の迫害も逃れ、そこに大切に保存されている本の数々。そこに座っていられるだけでも幸せだった。涙で本がかすんで見えた。

  France2のテレビニュースで3月10日ソルボンヌ(パリ第4大学)にたてこもった反CPEの学生たちの行動を見た。もう映像がなくなっているのでリンクできないが、一部の学生たちが図書館の本やコンピューターを窓から投げていた。ガラスが割られ椅子や机もダメージを受けている。そして焼け焦げた本の映像が映った。ごくわずかかもしれない。そんなに貴重ではない本かも知れない。だがフランスを代表する学び舎で本が焼かれたことを私は断じて許すことはできない。

  強行突入したCRS(共和国機動隊)は催涙弾を使用し大学生を校内から退去させた。その後ソルボンヌは安全が確保できないという理由で数日間閉鎖された。Silence est mort「沈黙は死」と書かれた張り紙があった。言いたいことを言うのは自由だ。だが、CRSの隊員の中には大怪我をおった人もいる。なぜ暴力なしに話し合いができないのだろうか。

  ランキングに参加しています。一日一クリック、ご協力おねがいします。

    ↓↓↓

  にほんブログ村 外国語ブログ フランス語へ
  

| | コメント (6) | トラックバック (0)

2006.03.13

アイルランド旅行記 その1 天気

wh
  レンヌを出発するとき雪がちらついていた。ユーロスターの車窓から見たフランス北部も真っ白。ロンドン郊外に住むという家族づれは「アイルランドはあったかいから、雪なんて降らないわよ」と笑っていた。ところが今年の天候は例外でアイルランドでも雪だった。

  それでめったに見られない雪の原野を旅することとなった。ダブリンの南Wicklowウイックロウ山脈(600~900メートル)なんてこのような雪景色。これが"Garden of Ireland"と言われる場所だ。滝や湖の点在する風景はきれいだったが、寒くてミニバスの窓が曇ってよく見えない! 5分ごとに窓を拭きましたよ。

wh1
    世界遺産Newgrageニューグレンジの外で説明を聞いている時も横殴りの雪が舞いとても寒かったが数分間内部で説明を聞いて外に出たら快晴だった。滞在の最後は雪は雨に変わったが、ブルターニュと同じようにザーと降って青空が見えるという天候だったので幸いだった。

  「そんな時期じゃなく春になってからにすればいいのに」と言われたが、この時期行ってよかったのは観光客が少ないこと。それでもダブリンのホテルは週末は予約がいっぱいで少し離れた場所に移動しなければならなかった。シーズンオフは安く泊まれるのがありがたい。どんなところに泊まったのかはまた後日。
   

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2006.03.12

レンヌで学生が大学閉鎖 その5 3月9日、日中の様子

  1968年以来始めてだというパリ、ソルボンヌでの封鎖はすでに終了したようだが、フランス西部ではレンヌ、ナント、ブレスト、アンジェ、ル・マンの大学が封鎖されたままだ。

  レンヌでは9日午後と夜、2回のデモが行われた。午後約2000人の大学生、高校生がメトロ(地下鉄)を占拠しようとし、そこから町の南や東に移動後リベルテ通りでCRSと衝突、瓶や石を投げてあばれたので催涙ガスが使用された。(メトロは混乱をさけるため一番乗り降りの多いレピュブリック駅を閉鎖した)。

  夜も学生たちはレンヌの町を迷走しブルターニュ広場で午前1時半ごろまで騒ぎは続いた。ここでも催涙ガスが用いられ、車や商店のガラスが割られるなど被害にあっている。このとき3人の若者が身柄を拘束されたようだ。

  ひとこと言い添えるが、大学封鎖は学生たちが週に一度程度行っている討論会の後の多数決で決定されており、閉鎖に反対する人数が増えれば解除することになっている。だが大学に集まっているのは反CPEの学生たちばかりで、結果的に封鎖が続いているわけだ。来週月曜日には採決が行われるはずである。

  この木曜日、私は朝から一日中レンヌを離れていた。帰宅した午後10時から11時すぎまで、市役所前広場では耳をつんざくような大音響で音楽が演奏されていたのだが、留守をしていた間の仕事がたまっているので全く外には出ていけなかった。まだまだ予定がぎっしりで今日はついにナント行きをキャンセル、明日はカレまで行き雪で延期になった会議に出席しなければならない。レンヌのことを詳しく伝えられなくて申し訳ない。

  その6に続く
  

| | コメント (2) | トラックバック (1)

2006.03.10

レンヌで学生が大学閉鎖 その4 続2003年の大学封鎖

mag1
  この長期にわたる大学封鎖と11月27日に行われた全国デモを受けて、フェリー教育相は2つの改革案のうちの「大学の自治化」構想を撤回した。フランスの現行の大学はほとんどが国立であり年間の学費は数万円。日本のような入学金も存在しない。そこに学位(学士、修士、博士)付与の権限を現在の国から各大学に移す「分権化」案を受け入れると、私学化が進み学費の値上げや大学間の競争が強まるのではと懸念されたのである。

  もうひとつは欧州連合に歩調をあわせた高等教育制度の改編であった。それまでフランスは他の国と異なる学術免状制度を採用していた。それを全面的に変更しようというものだった。具体的にいうと大学入学後、2,3,4,5,8年で習得できたのが、改正後は3,5,8年の3種類になったのである。これだけではわかりにくいので、フランス政府留学局EduFranceの説明を参照のこと。

  全フランス学生連合(UNEF)はデモに動員をかけ、約30ほどの大学で抗議行動が行なわれた。だが大学封鎖が行われた時点で、すでに15ほどの大学でこの制度への移行が完了していたので、結局この改革案は次の年から実施されることになった。レンヌ第二大学ではまるまる1ヶ月間授業がなかったので、教師はカリキュラムを消化しきれず、学生たちもレポートや試験に追い立てられることとなった。
mag
  今年の2月7日から2週間の休みをはさんで続いているCPE反対の大学封鎖だが、現在11の大学が封鎖され、約40の大学で何らかの抗議行動がとられている。3月7日、全国的なデモが行われ396,000人が参加した(2月7日のデモは274,000人だった)。8日付けの新聞Le Télégrammeの第一面には発煙筒を聖火のごとくかかげて笑っているロリアン若者の様子が載っている。知り合いのジャーナリストは「美しい。今年最高の写真だ」と感想を述べていた。

  レンヌでは12,000人がデモを行ったが、そのうち約800人が再びレンヌ駅に押しかけ、13時15分から約1時間列車を止めたようである。彼らはちょうど3年前、高校生の時に前述の大学封鎖を体験した世代である。私の友人のフランス人たちは「こんなことでレンヌの名前がメディアに登場することを恥ずかしく思う」と言っていた。

  それでもこの大学封鎖、まだ継続中なのだ。いったいいつまで続くのか?若者たちの行動がエスカレートしないことを祈っている。写真は2003年11月、レンヌ旧高等法院前で行われたパフォーマンスである。

   その5に続く

| | コメント (6) | トラックバック (0)

2006.03.08

ダーウィンの悪夢 NHK・BSで再放送

cauchemar_darwin_1_le
  Darwin’s Nightmare『ダーウィンの悪夢』がNHK・BSで3月11日(土) 後0:10~2:00に再放送される。見逃した方はぜひどうぞ。

  タンザニアのヴィクトリア湖周辺でなぜ飢えが蔓延しているのか。巨大魚ナイルパーチがもたらした富と貧困を描いたドキュメンタリー映画である。この映画、昨年春にフランスで封切りになってから何度も再上映していて、先月映画館で見たというフランス人もいた。

 詳しい映画の内容はタンザニアの映画 DARWIN’S NIGHTMARE その1に書いているのでご覧いただきたい。なおタンザニアの現状はこちらからどうぞ。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

アイルランドから帰国しました

ga1
  やっとレンヌに帰ってきました。出発することをココログの予約配信していったはずなのに、下書きになっていて配信できていませんでした・・・ 列車やチケットやホテルはインターネットで購入し、いそいそと金曜日2月25日の朝レンヌを出発。

  パリについてからメトロで北駅まで移動しました。ロンドン行きユーロスター乗り場に並び乗車しようとしたら「今日は24日ですよ。あなたのチケットは明日ですから変更してください」と言われ「そ。そんな馬鹿な・・・」と固まった私。

  そう、出発日を間違えたのです。金曜日に出発すると数週間前から思い込んでいて、ユーロスター乗り場で指摘されるまでさっぱり気づかなかったのです。パリの知り合いに電話して「今からお邪魔してもいいですか」と無茶なお願い。幸いにも一晩泊めてもらうことが出来、予定外でしたがルーブル美術館を2時間ほど見学しました。

  翌日ロンドンに泊まり、日曜日に飛行機でアイルランドへ。小さなトラブルやアクシデントはありましたが、アイルランドは夢みていた以上にいいところで、後ろ髪を引かれる思いで帰ってきました。帰りもロンドンに泊まり大英博物館の翼のある守護神像に再会し、ユーロスター、TGVを乗り継いで帰ってきました。

  アイルランドとケルトについて話したいことはたくさんありますので、また明日。写真はロンドン、ワーテルロー駅に降りたところです。

  

| | コメント (6) | トラックバック (0)

« 2006年2月 | トップページ | 2006年4月 »