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2007年8月の記事

2007.08.31

ロマネスクの教会堂

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    9月中旬に仕事でフランスに行くことになった。滞在は2週間。2つの仕事で前半はChartres シャルトル、Normandie ノルマンディー、Bretagne ブルターニュ。約30人で移動する。後半はNantes ナントから一気にBourgogne ブルゴーニュへ。こちらは友人に声をかけたが連絡がなく、ひとりで行くことになるかもしれない。

  ずっと行きたいと思っていて、行くチャンスがなかったBeaune ボーヌへの旅。右の欄にずっと置いてあるボーヌで死ぬということ―「中世の秋」の一風景のボーヌだ。ここで生と死を静観してこようと考えている。そしてそこまで足をのばすのならレンタカーでBasilique Sainte-Marie-Madeleine de Vézelay ヴェズレー詣でとAuxerre オセール、最後にDijon ディジョンも一目見たいと欲が出て、大変なスケジュールになりそうだ。

    そこで、図書館でかりた本を山のように積んで切り貼りしながら資料をつくっているところだ。なかでも図説 ロマネスクの教会堂 (ふくろうの本)はひじょうに質の高い本だ。教会の構造、彫刻などの図版、豊富なカラー写真とわかりやすい解説入りで、何度見てもうっとりする。

  しかも昨年訪れた素晴らしいロマネスク教会、Moissac モワサックとConques コンクが載っている。これは是非自分でも購入して手元に置いておこうと思う。

  「一度離れたら、もういつ戻れるかわからない」と覚悟して立ち去りがたい気持ちだったブルターニュ。思いがけず今年2度目の訪問となる。4月に行った時もParlement レンヌ旧高等法院の建物から離れられなくて、数十回振り返りつつ戻ってきた。騒がしくて眠れない夜(外で若者たちが宴会して)をどれほど過ごしたかわからないが、今となっては懐かしい。ブルターニュにも美しい教会がたくさんある。これからはブルターニュの小さな教会を紹介してゆきたいと思う。

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2007.08.27

ブルターニュのビールいろいろ

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  まだまだ暑い日本の夏。室内35度でした。先週まで日本のビールを飲んでいましたが、今週は買わずに我慢。夕方ジョギングをして今日は自家製の梅酒のソーダ割りで喉をうるおしました。フランスは冷夏だったようです。最高気温も20度ほどしかなくブルターニュの友人は洋服を重ね着しているとか。

  フランスでも近年ワインの消費が減少。ビールを飲んでいる人が増えています。ブルターニュにはオリジナルビールが数え切れないほどたくさんあります。これはごく一部。一番左がBrasserie LancelotのPays de Cocagne。次の2本はBrasserie SAINTE-COLOMBEの商品。3種類あって、賞もとっています。

    Brasserie CeltikのCeltikaはラベルがきれいなので購入。右端の3本は左端と同じBrasserie Lancelotのビール。いかにもブルターニュという絵柄です。この半分くらいがBlanche、白ビールなんですよ。フランスに行くまで飲んだことがありませんでした。それぞれアルコール度数も味も違いますので飲み比べてくださいね。

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2007.08.26

エルミンを抱いた貴婦人

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LEONARD DE VINCI
La dama con l'ermellino (1488-90).

  この作品はレオナルド・ダ・ヴィンチが描いたCecilia Galleraniチェチーリア・ガッレラーニの肖像画だ。15から17才くらいであったと考えられている。日本語では「白貂を抱いた貴婦人」と訳されることが多いがこれはフランス語ではLa Dame à l'Hermine、まさしくエルミン(オコジョ)なのである。

  チェチーリアが10才になったころイタリアのミラノ公、Ludovic Sforza ロドヴィーコ・スフォルツァ(通称 il Moroイル・モーロ)と婚約が整う。だが、ミラノ公はフェラーラ公エルコレ1世の次女ベアトリーチェと結婚。その後もチェチーリアは愛妾として同じ宮殿内に暮らしていた。一方レオナルド・ダ・ヴィンチは84年からロドヴィーコの元で働いていた。有名な「最後の晩餐」はミラノのサンタマリア・デレ・グラツィエ教会に描かれたものだ。

  ではいったいなぜ、エルミン(オコジョ)を抱いているのだろう。エルミンは純潔の象徴だったこと、そしてロドヴィーコの紋章だったというのが理由だ。加えて彼女の姓Galleraniに関する語呂合わせだったのではと推測されている。エルミンはギリシャ語でgalayだからだ。ただし評論家のなかには「オコジョじゃなくてフェレットだよ」という人もいるそうだが・・・

  さて「ミラノとブルターニュ、関係ないのに」という声が聞こえそうだが話はこれからだ。ロドヴィーコは2度にわたりフランス王と戦い没落してしまう。その王とはLe roi de France Charles VIII シャルル8世と Louis XIIルイ12世だ。ブルターニュ公妃でありフランス王妃となったAnne de Bretagne アンヌ・ド・ブルターニュのふたりの夫だ。

  ルイ12世はレオナルド・ダ・ヴィンチの評判を聞き、仕事を依頼したこともある。アンヌも夫から話を聞いていたはずだ。やがて運命に導かれるようにレオナルド・ダ・ヴィンチはフランスで人生最後の日々を送る。住まいとなったLe Clos LucéにはOratoire d’Anne de Bretagne アンヌ・ド・ブルターニュの礼拝堂があった。アンヌはアンボワーズ城の喧噪から逃れるようにこの礼拝堂で過ごすことが多かったのだ。

  ダ・ヴィンチがやって来たとき、アンヌはもう亡くなっていたが、礼拝堂に刻まれたエルミンのモチーフは今でも残っている。

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2007.08.23

ジョギング開始

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  2週間ほど前に靴を買った。春に膝が痛くなり足のケアをしなければとずっと思っていた。その後足の裏を切開したので運動量が減少。すっかり筋肉がおちてしまい、足のむくみがひどくなった。

  このままではいけないとついに重い腰をあげ新しい靴を履いて2度ほど歩いた。最初は少し違和感があってとまどったが、2度目は大丈夫だった。ちょうど先週24時間テレビを見た。間 寛平さんの鍛え上げた身体が美しいと思った。彼がマラソンを始めた理由は、心臓疾患の治療のためだとか。それが今ではマスターの日本記録を更新するほどになったのだからすごいものだ。

  私は中学生のころ、よくジョギングをしていた。それから走るということには縁がなかったが、歩くのは苦痛ではないし、走ったほうが筋肉をつくるにはてっとり早いだろうと安易な気持ちだった。ところが、30メートルも走ると息切れはするし、足がまったく上がらない。こんなはずでは・・・あらためて欽ちゃんのマラソン挑戦がどんなに無謀だったか思い知った。

  でも1日で止めたのでは元も子もない。今日で4日続けて、ジョギングをした。情けないことに、ダッシュしてはよろよろ歩くという状態で人様に見せられる走りにはならない。すでに左の腿が筋肉痛だ。たぶん2か月くらいしたら、3キロくらいは走れるようになるだろう。小さな挑戦のはじまりだ。

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Hermine エルミンをスクールシンボルとする学校

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  これはおなじみのHermine エルミン、オコジョのしっぽですね。ブルターニュでは中世のころから使用されています。la Pureté 穢れのない様を示すものです。

  でもこのマークはブルターニュとは直接の関係はないようです。驚いたことに日本の京都市伏見区にある学校のスクールシンボルなのです。

エルミンという動物を中心に「OBEISSANCE ET PURETE」という,フランス語で従順と純潔を意味する文字がそれを囲んでいます。エルミンはフランスの動物で,真白い毛皮に包まれた体が少しでも汚れると死んでしまうという言い伝えから,聖母女学院創立当初に純潔の象徴とされ校章となりました。

  学校法人 聖母女学院 聖母学院中学高等学校はフランスのヌヴェール愛徳修道会から派遣された創立者メール・マリー・クロチルド・リュチニエおよび6名の宣教女が大阪玉 造カトリック教会内にて語学などの個人教授を開始したのがはじまりで、それは1921年だそうです。

  このところ聖母の物語を書いてきましたので、なんだか不思議です。ヌヴェール愛徳修道会とはルルドで聖母の姿を見た聖ベルナデッタが眠る場所なのですから。

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2007.08.21

蒼い聖母ご出現の地 Pontmainポンマン その12

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Je vous salue, Marie pleine de grâce ;
le Seigneur est avec vous.
Vous êtes bénie entre toutes les femmes
Et Jésus, le fruit de vos entrailles, est béni.
Sainte Marie, Mère de Dieu,
priez pour nous pauvres pécheurs,
maintenant et à l'heure de notre mort.

めでたし、聖寵(せいちょう)みちみてるマリア、主(しゅ)御身(おんみ)と共にまします。
御身は女のうちにて祝(しゅく)せられ、御胎内(ごたいない)の御子(おんこ)イエズスも祝せられたもう。
天主(てんしゅ)の御母(おんはは)聖マリア、罪人(つみびと)なる我らの為に、
今も臨終(りんじゅう)の時も祈り給え。 

恵み溢れる聖マリア、主はあなたとともにおられます。
主はあなたを選び、祝福し、あなたの子イエスも祝福されました。
神の母聖マリア、罪深い私達の為に、
今も、死を迎える時も祈って下さい。 

    私が訪れたのはちょうど大晦日だった。Pontmain ポンマンにもともとあった小さな教会の内部でミサが行われていた。天井も壁も蒼く、無数の星が描かれている。私はキリスト教徒ではないが、フランスの友人たちはカトリック教徒が多く、よく教会のミサに出席していた。しかし、ひとりで行ったこのミサは忘れられない。上に書いたSainte Marie, Mère de Dieu 聖母マリアへの祈祷文をそのミサの最後に全員が声を揃えて唱えていたのだ。

  この内容を書いた紙を手渡されたので、一緒に声を出して読んでいた。1度、2度、3度とくり返してもうこれで終わりだろうと思ったのに、声はまったくやむ気配がない。5度、6度と唱和してもまだ続く。祈り給え。祈り給え。祈り給え。祈っても祈りつくせない、まっすぐな祈りが心にしみこんできたのである。一晩じゅう続くのではと一瞬思ったが実際には20度くらいで終わりになった。写真はミサが終わりほとんどの人が教会から立ち去った後で撮ったものだ。

  これまで紹介してきた聖母マリア出現の物語の真偽について語る資格はない。私にできることは何が起きたのか、見聞きしたことをそのまま書き写すことだけだ。ルルドでもここポンマンでも、聖母出現後、医者から直ることがないと見離された病気や怪我がいやされるといった奇跡を体験した人がいること、そして、実際に遠くから巡礼者が絶えることがない。そこには科学では解き明かせない何かがあるとしか考えられない。

  西洋の文化を理解しようとつとめれば、どうしてもキリスト教を学ぶ必要にせまられる。その関連からユダヤ教やイスラム教など世界の宗教にも関心をいだいている。考え方に違いがあっても、どの宗教も信じること。何かを祈ることなしには成り立たない。教会にもモスクにも神社仏閣にもそれぞれ人々の強い念が満ちている。だから言語がわからなくても、教義を知らなくても、身体が反応するのだろう。下の資料に地図があるので、機会があれば現地を訪ねてほしい。

  最後まで読んでくれたことを感謝して、ポンマンで購入した蒼い聖母のメッセージ入りカードを1名の方にプレゼントしたい。ご応募はメールに「蒼い聖母のしおり希望」と明記し、読んだ感想を書き添えてほしい。締め切りは8月末日。抽選のうえ当選者にメールで連絡。ふるってご応募を。

  その1はこちらから。

    参考資料

 聖母マリアへの祈祷文 アヴェ・マリア Wikipedia
Pontmain ポンマンの位置 ブルターニュ、ノルマンディー、ロワールの境にある。行政上はロワール地方。
Pontmain ポンマンの地図 現在も小さな村だ。

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2007.08.20

蒼い聖母ご出現の地 Pontmainポンマン その11

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  プロシア軍は1871年1月5日、それまで包囲していた首都パリに砲撃を開始。戦闘は続いていたがフランス軍の巻き返しは望みうすだった。そして1月18日、ヴェルサイユ宮殿でドイツ帝国の皇帝ヴィルヘルム1世の即位式が行われた。(宰相はビスマルク)。ちょうどそれは蒼い聖母ご出現の翌日のことだった。(戦争のいきさつはその2を参照のこと)。

  この物語の舞台となったPontmainポンマンはパリから350kmほど西に位置している。すでに数十キロ離れたLavalラヴァル近くまでプロシア軍が進軍してきていた。小村ポンマンは攻められればひとたまりもない。事実1月18日も大砲の音が響き、予断を許さない状況だった。ところが、この日以降攻撃は中止され20日になると急にプロシア軍が撤退を始めたのだった。そして28日、両国の間で休戦協定が結ばれた。
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  Pontmainポンマンには平和が戻った。聖母の恩寵でこの地が荒らされることがなかったのだと、村人たちは信じた。そして蒼い聖母が姿を現した空に向かって祈りつづけた。その噂を聞きひとり、またひとりと巡礼者がふえていった。やがてポンマンから戦地へ赴いていた38人が皆無事で故郷に帰郷し村人たちは喜びにわいた。

    もちろん誰もが聖母ご出現を信じたわけではない。子供たちはひとりずつ引き離され、教会関係者や医者に何度も尋問された。それまでにも聖母ご出現といわれたことはたくさんあった。しかしポンマンの例は特殊だった。文章があらわれたことはなかったからだ。子供たちの作り話とは片付けられない出来事だったのだ。

下の写真はBasilique Notre-Dame de Pontmainである。この内部の様子はこちらから360度見ることができる。

 その12につづく その1はこちらから

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2007.08.17

予報用語 猛暑日続く

   猛暑で命をおとす人がではじめている。今週の暑さは尋常ではない。でも私が体験したフランス2003年8月のcanicule 猛暑よりはましだろう。何しろふだんは涼しいフランスではクーラーはもちろん、扇風機も普及していなかったからだ。このときは年配者を中心に約1万5千人が亡くなった。

  私もブルターニュのレンヌで気温が39度になったとき、唯一の防衛手段である窓を開け風を取り込もうとした。だが、入ってきたのは喉を焼くかと思うほどの熱風だけ。そのときはじめて、夏になると「鎧戸を締切り外気の進入を防ぐ」という小説描写の意味を思い知った。

  日本の現在の住まいにはクーラーがないので昨日の室内気温36度、今日は35度という厳しい暑さに、集中力が落ちている。氷枕で首筋を冷やしてはいるものの、夜になっても32、5度と気温が下がらないので汗がひかない。気象庁の予報用語では最高気温が摂氏35度以上の日のことを「猛暑日」と今年4月から定義されたそうだ。天気予報では暑さもあと数日がピークだとか。早く秋の澄み切った空が見たいものだ。

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2007.08.15

蒼い聖母ご出現の地 Pontmainポンマン その10

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  それまで蒼い服を着た女性は両手を下ろしていたのだが、その手を肩の高さまで上げた。そして聖歌のリズムにあわせ微笑みながら、指をゆっくりと動かした。「笑っていらっしゃる。何て美しいお姿だろう」と子供たちは手をたたきながら飛び上がった。「今まで見たことなかったもの」「お側まで飛んでゆけたらいいのに」「羽があったらなあ」口々に感想を述べながら、空を見上げる子供たち。

    しばらくすると聖母の表情がくもったようだった。そのとき真っ赤な十字架が出現した。よく見ると真っ赤なキリスト磔刑像をともなっていた。ひとつの星が下の方から上に移動して、聖母の身体の周りにある4本のロウソクに火がともった。村人たちは一心不乱に祈った。

    シスターMarie-Edouard マリー・エドワールがAve Maris Stella アヴェ・マリス・ステラ(めでたし、海の星)を歌いはじめると、赤い十字架が消え、聖母は両手を元のように下げた。それから聖母の両肩のところに真っ白な十字架が2つあらわれた。「ああ。微笑んでいらっしゃる」と子供たちもうれしそうにつぶやいた。

  ちょうど、夜のお祈りの時間だった。各々がその場に跪きひたすら祈った。すると白いベールが足元から聖母をつつみはじめ、その身体が見えなくなった。もう顔も判別できなくなっていた。そして4本の火のついたロウソク、蒼い楕円形の縁取りも闇にまぎれてしまい、すべてが終わった。

  時刻は午後9時になっていた。静かな安らぎに満たされ、村人たちは家に帰った。心配はすべて消え去っていた。

  Ave Maris Stellaの歌詞日本語訳 解説も素晴らしい。

  その11につづく その1はこちらから

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2007.08.14

蒼い聖母ご出現の地 Pontmainポンマン その9

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  急に子供たちがいっせいに叫んだ。「見えるよ。長い棒みたいだ」と。家の屋根と空に浮かぶ女性の間に白い棒状の空間があらわれたのだ。上の写真がそれを再現した絵である。

  そしてその白い空間にアルファベットが一文字ずつ示された。「M」少したつと「今度はA」といった具合に。「MAIS」の次は少し空きがあったので、これが最初の単語だとわかった。この4文字がそろうまでに10分近くかかっている。それからも次々と文字があらわれ、最終的には下のような文章となった。
Message

    MAIS PRIEZ MES ENFANTS DIEU VOUS EXAUCERA EN PEU DE TEMPS.(さあ祈りなさい 子供たち 神はもうすぐあなたたちの願いを聞き入れるでしょう)  このメッセージは非常な喜びをもたらした。文章の最後には「とても大きく、まるで太陽のよう」な巨大な句読点が示された。これを見守っていたひとりの女性Mariette マリエットは(その7のJean Guidecoq ジャンの妹)、疑いをいだきそれを口にしたとたんに身動きができなくなった。そして泣きながら祈りを捧げたのであった。

  MON FILS SE LAISSE TOUCHER (わが息子は心を動かされます)
  聖母マリアをたたえる別の歌が終わるころ2行目の文字があらわれた。そしてMON FILS モン・フィス(わが息子)という単語に、人々はこの女性が聖母マリアであると確信したのだった。雪の中だというのに心は温かさで満たされ、金色の光が下線となった。さらに人々が深く祈ると、聖母マリアの姿に変化が生じた。
  
  その10につづく その1はこちらから。

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2007.08.10

蒼い聖母ご出現の地 Pontmainポンマン その8

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  村人は戸を開け放った納屋の中や雪の上に跪き祈りを唱えた。祈るに従って、蒼い服を着た女性の姿はますます神々しく、大きくなってきた。「さっきの倍くらいになったよ」と子供たち。彼女の周りにある青い縁取りも広がっていた。

それと同時に蒼い洋服にちりばめられている星の数が増え光につつまれていた。「星だらけだ。身体が金色に見えるよ」と驚くほど、まるで魔法のように。しかも空に輝く星までもその位置を変えた。2つずつペアになっておよそ40の星が、この女性の足元に集まってきたのだ。

  シスターMarie-Edouard マリー・エドワールがMagnificat(マニフィカト、晩課に歌われる聖母マリアの賛歌)で'sur le grand ton de Bretagne'ブルターニュの調べの最初の句を歌い終わったとき、奇跡がおきた。

その9につづく その1はこちらから。

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2007.08.08

夏の風物詩

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たった一瞬のきらめきを記憶に残し火薬がはじけ飛ぶ。

川面をそめる無限の粒子は夜空を翔る龍のようにみえた。

   

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2007.08.07

蒼い聖母ご出現の地 Pontmainポンマン その7

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  知らせを聞いたl’abbé Guérinゲラン神父が納屋の前までやってきた時だった。突然、子供たちが口ぐちに「何かが起きている」と声をはりあげた。そして徐々に話しはじめた。女性の身体から50センチくらい離れたところにやはり蒼い色の楕円形の縁取りがあらわれたのだった。その内側に4本のロウソク(2本は肩の高さ、もう2本は膝の高さ)、そして女性の左胸の上に小さな赤い十字架が見えた。

  ポンマンには以前から小さな教会があった。そこはフランス革命後荒れ果てて屋根さえもなかった。ゲラン神父は35年前から一生懸命教会を修復してきた。マリア像を置いてミサを行うときは4本のロウソクをともした。そして10年ほど前にはマリア像のある壁の内部を青く塗り、星を描いていのだ。

  子供たちの語るその女性の様子は、村の教会と似ているようだった。ただ神父もふくめ大人には何も見えない。いらだちから子供たちに向って皮肉を口にするものもいた。Jean Guidecoq ジャンは「どうして俺には見えないんだろう。眼鏡か絹のハンカチがあったらなあ」とぼやいた。これらは天文学研究の象徴だった。絹のハンカチは、日蝕観察に用いられていたからだ。

  「それならあるわ」とヴィクトワールは家からスカーフを取ってきてジャンに手渡した。しかしスカーフごしに眺めてみても空には星だけ。人々は彼のことを笑ったり、ひやかしたりした。ウジェーヌは急に「寂しそうなご様子」と言った。女性の表情がくもったのは、ざわめきのせいではないかと思われたからだ。

  「おだまりなさい。子供たちにしか見えないのは彼らが我々よりもよりふさわしいのです」とl’abbé Guérinゲラン神父の声が響く。シスターMarie-Edouard マリー・エドワールは「神父様。マリア様にお声をかけてください」とうながした。「私にはお姿が見えないのに、どうお話すればいいのか・・・」。「それなら子供たちが話しかければよいのでは」。神父はこの提案をしりぞけると「祈りましょう」と皆をうながした。

その8につづく その1はこちらから。

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2007.08.06

蒼い聖母ご出現の地 Pontmainポンマン その6

  シスターは数人の寄宿生に外に出るよう声をかけた。Françoise Richer フランソワーズ( 11才) 、 Jeanne-Marie Lebossé ジャンヌマリー( 9才 )、 Augustine Mouton オーギュスティーヌ( 12才 )だった。フランソワーズは夜出歩くのが怖かったので迷ったのだが、思い切って外に出た。そして、フランソワーズとジャンヌマリーは蒼い服を着た女性を見たのだった。
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  気が付けばほとんどの村人が納屋の前に集まっていた。シスター・ヴィタリヌは「日本の殉教者の祈り」を誦えていた。1597年京都フランシスコ会聖堂にいた修道会士たちが捕えられたこと。耳を削ぎ落とされ、京都市中を引き回わされ長崎の丘の上で磔刑にされたこと。まるでキリストと同じように胸を突かれたこと。そして26人の中には子供もふくまれていたことなどだ。彼らは1862年6月8日、教皇ピオ9世によって聖人となった。この物語がブルターニュSaint-Brieuc サン・ブリユーにあるキリスト教の学校で「日本の殉教者の祈り」として作られ、フランス西部でよく知られていたのである。

  Eugène Friteauフリトー( 6才 )は厚いマントにくるまれ、おばあさんに連れられてやってきた。あまりに寒かったのですぐに家に帰ったのだが、数日後美しい女性を見たと証言した。「何も言わなかった。僕に笑いかけたから、僕も笑ったよ」と。

  まだ25か月にしかならない女の子も何かに反応した。Augustine Boitin オーギュスチーヌは空を見つめながら手をたたき、Le Zésus(キリスト)と繰り返した。ほかの宗教用語を知らなかったからだ。数日後近所の奥さんが別の場所を示して「あそこに見えたのよね」と確認するとちゃんと正しい方向を向いて「もういないの。行ってしまった」と答えた。

  その7につづく その1はここから。

     参考資料

  日本26聖人殉教の地
  ヨーロッパ全土で聖フランシスコと修道会がはたした影響はひじょうに大きい。

 

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2007.08.05

蒼い聖母ご出現の地 Pontmainポンマン その5

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  母親Victoire ヴィクトワールが何も知らずに納屋のそばにやって来ると、ジョゼフは手をたたきながら叫んだ。「ああ。なんてきれいなんだ。なんてきれいなんだ」と。あわてた彼女はジョゼフの腕をたたくと、静かにするようさとした。夫のCésar セザール同様に彼女にも何も見えなかったからだ。それでも信心深いヴィクトワールは戦争に行っている息子オーギュストの身によくないことが起きたのではないかと心配になった。

  しかし子供たちは悲しんでいなかったし、兄ではなく女性の姿だというので、急に聖母マリアではないかと思った。そこでcinq Pater et cinq Aveというお祈りをかかさないようにと言った。近所の人たちが外に出てきて、何をしているのかとたずねた。セザールは「何でもないよ。子供たちが何かを見間違ったみたいだ。私たちには何にも見えないのだから」と答え、家族で納屋に戻ると4人揃ってお祈りをした。
 
  ヴィクトワールはもう一度子どもたちに確認したがずっと同じようにそこに見えるというので、眼鏡を取りに家にもどり、召使のLouise ルイーズをつれて戻ってきた。眼鏡をかけても、子どもたちと同じ女性は大人の目には見えなかった。「エニシダをはやく折りたたんで。嘘つきなんだから」としかられ、ジョゼフはびっくりした。こんなに冷たい言葉を聞いたことがなかったからだ。すぐに仕事を終えた兄弟たちはそこにいたかったのだが、夕食のスープを食べるよううながされ、何度も振り返りながら家にもどった。それはわずか15分くらいの出来事だった。

  少年たちは大急ぎで立ったまま夕食をすますと、雪の降る中をもとの場所にもどりひざまづいてお祈りをした。女性の背丈はシスターのヴィタリヌさんくらいだった。「お母さん。シスターに来てもらおうよ」と相談し呼んできたが、シスターにも星しか見えなかった。ヴィクトワールはうなだれて、「誰にも言わないでください。息子たちの錯覚なんですから」と言うしかなかった。(写真はSANCTUAIRE NOTRE-DAME DE PONTMAIN )。

その6につづく その1はこちらから。

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2007.08.04

蒼い聖母ご出現の地 Pontmainポンマン その4

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  無数の星が夜空に輝いていた。その空に浮かび上がる女性の蒼い服にもまばゆい星の模様が光っていた。その女性は両手を少し開いて、頭には金色の冠をかぶっていた。その冠には赤い線が入っているようだった。ウジェーヌは思いがけない光景にただ見とれていた。彼女は静かにウジェーヌに微笑みかけているかのようだった。(SANCTUAIRE NOTRE-DAME DE PONTMAINにあるステンドグラス。クリックすると大きくなるが、このシーンは左下のイメージ)。
 
  ところが兄のことを知らせてくれたジャンヌや父には女性の姿はまったく見えなかった。だが弟のジョゼフは蒼い洋服とお揃いの靴をはいた女性がいることをみんなに告げたのだ。月もなく、もちろん街灯もない空の上にはっきりと浮かび上がる女性が彼の目にも映っていた。

  とまどいをかくせない父親は二人の子供たちには納屋にはいるように言うとジャンヌさんには「噂になると困るから誰にも言わないように」と口止めをした。再び仕事をはじめた3人だったが、やはり仕事には集中できない。そこでもう一度、まだ空に女性の姿があるかどうかを確認させた。子どもたちが「まだ見えるよ」と言うものだから、家にいる母親を呼んでくるように言った。

   その5につづく その1はこちらから。

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2007.08.02

サーフィンのヨーロッパ到来50周年

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  サーフィンといえば、ハワイをイメージしますが、ヨーロッパにサーフィンがあらわれたのは1957年。フランスの南西部、スペインに近いバスク地方のBiarritzビアリッツだったのです。バスク海岸のVilla Belzaヴィラ・ベルザの沖合で少年たちが波の上を滑っていたので、地元の人たちも驚いたのです。
Expo_vagues_surf_vgn

  それからサーフィンはすっかり定着し、ビアリッツを含むこの地域の海を代表するスポーツとなりました。今年はヨーロッパ到来50周年を記念して様々なイベントが11月まで開催されています。サーフィンコンテストや、展示会、映画の上映やイベント、コンサートなどです。そのスケジュールはここから。上の写真はブルターニュのサーファーです。

  そのうち「バスク海岸の波とサーフィン写真展」のポスターが右。Exposition : Vagues et Surf de la Côte Basqueの内容はここから。

Biarritz fête le 50e anniversaire de l’arrivée du surf en Europe サーフィンのヨーロッパ到来50周年記念 ビアリッツ ホームページ

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