カテゴリー「歴史」の記事

2015.11.21

Archives numériques de la Révolution française フランス革命オンライン書庫無料公開中

  スタンフォード大学の図書館でフランス革命オンライン書庫が無料公開中です。約1万4000枚の画像に加え、議会記録、書簡などの資料がそろえられています。そのころは今のように写真や映像がありませんが、このような資料がこれだけ揃っているのは歴史を知る上で大変有難いことです。

  フランス革命では国内で国王ルイ16世、王妃マリー・アントワネットを筆頭に多くの人々がギロチンによって命を奪われました。少なくみつもっても二百万人が亡くなったと言われています。ほとんどが名もなき市民です。

Archives numériques de la Révolution française l’Université de Stanford

Les Archives numériques de la Révolution française (ANRF) sont issues d’une collaboration de plusieurs années entre les bibliothèques de l’Université de Stanford et la Bibliothèque nationale de France (BnF), visant à créer une version numérisée des principales sources d’étude de la Révolution française et à les mettre à disposition de la communauté académique internationale. Les Archives s’appuient sur deux sources principales, les Archives parlementaires et un vaste corpus d’images réuni pour la première fois en 1989 et intitulé Images de la Révolution française.


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2015.08.04

L'inhumation de Louise de Quengo ルイーズ・ド・ケンゴ夫人の埋葬

  レンヌで見つかった17世紀の遺体はLouise de Quengo ルイーズ・ド・ケンゴ夫人と推測されていた。このニュースが話題になると、その子孫が「最終的にどこに再埋葬すべきか。Tonquédec トンケデックに埋葬してはどうか」という案をなげかけた。

  なぜならLouise de Quengo ルイーズ・ド・ケンゴ夫人の兄弟が1636年にChâteau de Tonquédec トンケデック城を購入したからだ。レンヌから北北西160kmに位置するこの城は、ブログにも登場したことがある。トンケデック城を望むというエントリーだが、新しいホームページによると最近は中世のイベントなども開催されていてにぎわっているようだ。

  Château de Tonquédec トンケデック城のホームページ

  さて話を元にもどそう。子孫はTonquédec トンケデックのコミューンの教会地下墓地に多くの祖先たちが埋葬されていることを指摘し提案を受け入れてくれるよう依頼した。町長は受け入れに応じる姿勢を示したが知事がそれに難色を示した。そこで教会外部の墓地に埋葬して欲しいというと、数年前に墓地が修復されたなどの理由で断られた。

  Quatre siècle après, Louise de Quengo inhumée à Tonquédec ? le trégor

  そして新たな登場人物もあらわれた。フランス映画に贈られるセザール賞で、2013年の助演男優賞を獲得したGuillaume de Tonquédec ギヨーム・ド・トンケデック。彼も約80人いる子孫のひとりだったのだ。下の記事には父親のPatrick de Quengo de TonquédecとGuillaume de Tonquédecの写真も載っている。
Histoire. Louise de Quengo resurgit du passé de la famille de Tonquédec Ouest France

  Louise de Quengo ルイーズ・ド・ケンゴ夫人の祖父はレンヌの旧高等法院と関係が深く、祖母の家系はレンヌ在住であったというから、彼女が最後の日々を過ごしたレンヌに埋葬するのが自然であろう。フランスは基本的に火葬しないので墓地は常に不足しており、誰でも受け入れるわけにもいかないのだ。静かに眠れる終の棲家探しは容易ではなく、死後350年たったこの論議、まだしばらくは続きそうだ。

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2015.08.01

L’exceptionnelle sépulture de Louise de Quengo ルイーズ・ド・ケンゴ夫人の特別な墓

  シャンパーニュ・アルデンヌ地方でケルトに関する埋蔵品が次々と発見されていることをUn prince celte et son char enterrés 埋葬されたケルトの有力者と戦車で紹介した。

  レンヌでもPlace Saint-Germain サン・ジェルマン広場の地下3メートルの地層からVestiges de la ville médiévale 中世の遺跡が見つかったことがニュースになった。

  AFPで報道されていたのがレンヌで発掘された17世紀の貴婦人の遺体である。フランス語で検索してみると、かつてのCouvent des Jacobins ジャコバン修道院はメトロの駅 Sainte Anneのすぐそばだ。


  L'exceptionnelle sépulture de Louise de Quengo dame du XVIIe siècle, Inrap (国立予防考古学研究所)

  2011年から2013年にかけて発掘が行われ、鉛製の棺4個と墓800基が発見されたが、完全な状態で保存されていたのは1体のみでほかの墓には骨しかはいっていなかった。遺体は1656年に亡くなったLouise de Quengo ルイーズ・ド・ケンゴ夫人と推測されているが、夫が亡くなった1649年以降は修道院で過ごしていた。なぜこのように具体的な名前や年号までが明らかになったかというと、心臓をいれるハート型の鉛ケースの外側にそれらが記述されていたからだ。

  婦人が身に着けていたのはケープ、ウールの修道衣、コルク底の靴で、右腕には「スカプラリオ」と呼ばれる布がかけられ、手には十字架が握られていた。また顔には、埋葬布が掛けられ、ボンネット(帽子)やコワフが置かれていた。

  このCouvent des Jacobins ジャコバン修道院の発掘を記録したビデオがあるが、これが素晴らしいのでぜひ見て欲しい。

Le couvent des Jacobins dans l'oeil d'un drone from Rennes, Ville et Métropole on Vimeo.

Survol du chantier filmé par un drone: le couvent des Jacobins, futur Centre des congrès de Rennes, comme vous ne l'avez jamais vu!


  Construction du Centre des Congrès de Rennes Métropole

  実はこのニュース、最近になって意外な情報があきらかになった。その内容については次回のエントリーで述べたいと思う。

  <追加エントリー>

  L'inhumation de Louise de Quengo ルイーズ・ド・ケンゴ夫人の埋葬
  

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2015.06.08

Un prince celte et son char enterrés 埋葬されたケルトの有力者と戦車

  フランス、シャンパーニュ・アルデンヌ地方で行われている発掘調査でケルトに関する埋蔵品が次々と発見されている。場所はAube オーブ県の県庁所在地、Troyes トロワから数キロメートルに位置するLavau ラボーである。保存状態は良好で、鉄器時代初期、今から約2500年前の墓地であろうと推測される。この貴重な発見でのどかな町の役場は問い合わせの電話がなりっぱなしだという。発掘状況についてはまず映像を見てほしい。


La sépulture d'un prince celte découverte dans... 投稿者 francetvinfo

  ギリシャやローマでは洗練され高度に発達した社会生活をおくっていたが、ケルトは森の中で暮らす残虐で粗野な未開の人々というイメージを抱いていないだろうか。今回発見された出土品からは支配者階級が洗練された生活を送り、イタリアなどと交易がさかんに行われていた事実がわかる。今後の調査でまだまだ埋蔵品が出てくるだろう。本当に楽しみだ。

  L'exceptionnelle tombe d'un prince celte découverte près de Troyes Publié par Maxime Lambert, le 06 mars 2015 Copyright © Gentside Découverte

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2010.10.29

BBC地球伝説 歴史シリーズ

  BS朝日、午後8時から「BBC地球伝説」という番組がある。先週たまたま見たのが「イギリス・華麗なる芸術の旅」の第一話の最後のほうだった。ちょうどノルマンディーにあるバイユーで保管されているLa Tapisserie de Bayeux タペストリーの説明をしているところだった。1066年のノルマンディ公Guillaume ギヨームとイングランド王Harold ハロルドによる決戦の様子が刺繍され、ユネスコの世界遺産にもなっている逸品である。

  私は現地で実物を3度見たがまだ鮮やかな色彩が残っていて当時の風俗がわかる貴重なものだ。Musée de la Tapisserie de Bayeuxの内部はこの貴重な歴史遺産を守るため照明がおとされ薄暗くなっている。それから中世から現代までの7回シリーズはどれもおもしろかった。

  昨晩は「ジュリアス・シーザー ガリア戦記をめぐる旅」で、ウェルキンゲトリクスとのガリアでの攻防が非常によく描かれていた。ガリア軍は焦土作戦でカエサルひきいるローマ軍の食糧を断ち、じわじわと追い込んでゆく作戦だったのだが、最後の戦いとなったアレシアでは立場が逆転し、決戦に敗れたウェルキンゲトリクスは捕虜としてローマに連行されてゆく。

  自らの暮らす大地に火を放ち敵を翻弄するその姿にふとブルターニュで見たドキュメンタリー映画を思いだした。Plogoff, des pierres contre des fusils プロゴフ、銃には石をだ。祖国や故郷を守るために最後まで戦い抜く、そのひたむきで熱き心は現代にも生き続けているのだと。


    < 関連エントリー >

  カエサルのガリア戦記

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2008.01.26

ルイ16世 追悼ミサ

Louis16_stdenis

  1月21日は215年前にギロチンの露と消えたフランス国王Louis XVI ルイ16世の命日だった。処刑場所は革命広場(現在のコンコルド広場)だった。遺体は近くの墓地に埋葬された。そして1815年1月19日掘り起こされBasilique de Saint-Denis サン・ドニ大聖堂に移された。

    当時墓地だった場所は「ルイ16世広場」という小さな公園になっていて、Chapelle expiatoire 贖罪礼拝堂が建っている。日本人観光客で賑わっているギャルリー・ラファイエットやプランタンからすぐ側にあるのだが、実際に行ったことのある人は少ないだろう。

  私ははじめよく調べずに行ったものだから中に入れなかった。というのも開いているのは木、金、土の午後1~5時だけ。そこでいったんブルターニュに戻り、また日程を調整して出かけることになった。(片道2時間半かかるので再訪したのは半年後だったが)。それでも内部を見学していると後から数組やってきたから、忘れ去られているわけではないようだ。Louis16

  さて上の写真はサン・ドニ大聖堂で数年前に行われたルイ16世追悼ミサの様子。出席した日本人は私だけだった。ミサの後で地下のクリプトにあるルイ16世と王妃マリー・アントワネットの墓の前でお祈りをした。今年もフランス各地で追悼ミサが行われている。

  右の写真はサン・ドニ大聖堂にある王と王妃の像である。ここには歴代の王が埋葬されている。しかしフランス革命後王たちの遺体は棺から取り出されて、大きな穴に投げ込まれてしまったので誰のものであるか判別できない。

  今年の1月21日。日本では大雪が降った。ルイ16世が処刑された時もきっと寒かったのだろうと考えた。

  

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2007.11.29

女王ボウディッカとウサギ占い

Voadicea

  ボウディッカ(ブーディカ)はブリテン島南東部に暮らすイケニ族の女王だった。領地はローマによる属州となったのだが彼らは自治を許されていた。王プラスタグスは遺言で2人の娘に統治権を継承した。だがローマはそれを無視して蛮行におよぶ。女王ボウディッカは鞭打たれ、娘達は強姦されたのだ。さらに王の親族たちは奴隷に落ちぶれる始末だった。

  部族の誇りを汚されボウディッカはAC60年、反乱軍の先頭に立つ。これに周囲の部族も協力し、ローマ軍の歩兵部隊は壊滅。7万人が殺戮された。しかしローマ軍の反撃にあい、ついに反乱は鎮圧された。反乱軍の犠牲者は8万人にのぼった。そして女王は自ら毒をあおって果てた。その決戦の前に行われたのがウサギ占いだった。

"Let us, therefore, go against (the Romans), trusting boldly to good fortune. Let us show them that they are hares and foxes trying to rule over dogs and wolves." When she had finished speaking, she employed a species of divination, letting a hare escape from the fold of her dress; and since it ran on what they considered the auspicious side, the whole multitude shouted with pleasure, and Buduica, raising her hand toward heaven, said: "I thank thee, Andraste, and call upon thee as woman speaking to woman..."

「これにより、私たちを(ローマ人へ)向かわしめ、勇ましさと幸ある未来をご信託ください。彼奴らが、犬や狼を御そうとする野ウサギか狐であることをお示しください」彼女(ブーディカ)は祝詞を終えると、衣の襟を開いて野ウサギを放ち、予言の儀を執り行った。野ウサギは吉を兆す方へ駆け、群集は歓喜の声をあげた。ブーディカは掌を天に高く掲げつつ述べた。「アンドラステの神よ、感謝を捧げます。ひとりの女として、女性である貴女へ…」
Wikipedia

  忘れ去られた女王ボウディッカの名声が高まったのは19世紀、ヴィクトリア朝時代だった。桂冠詩人のアルフレッド・テニスンは詩を書き、海軍フリゲート艦隊の名称にも命名された。写真はロンドン中心部、ウエストミンスター橋のたもとにある女王ボウディッカの像だ。

  Enya エンヤの歌うboadiceaは1986年に英国BBC局で放映されたテレビシリーズThe Celts 幻の民 ケルトのサウンドトラックThe Celtsとして制作されたアルバムの中の一曲。私はこのDVDをフランスで購入した。その時インターネットで検索して一番安かったのはカナダの会社だった。送料はフランス国内と変わらなかったので喜んでいた。ところがよく確かめずに、リージョン1を買ってしまい再生できない。フランスも日本と同じリージョン2なのでそこまで考えていなかった。どうしても中身を見たかったので悩んだ末にパソコンをリージョン1に変更。(リージョンの変更は3回しかできない)。おかげで、それ以降フランスでDVDが見えなかったといういわく付きなのだ。

  カエサルは「兎と鶏と鵞鳥を食べるのはよくない」と述べていて、それは神聖視されていたからだと考えられているが、一方で、ウサギが生贄にされることもあったようだ。これらについてはまた次回に。

  ガリア戦記 (講談社学術文庫)
  ケルト神話・伝説事典
  海のかなたのローマ帝国―古代ローマとブリテン島 (世界歴史選書)
  世界古典文学全集〈第22巻〉タキトゥス (1983年)

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2006.11.21

Histoire de Rennes レンヌの歴史

Rennes_h
  この秋、発売された大型本Histoire de Rennesレンヌの歴史である。レンヌ市役所で出版記者会見も行われた。写真にうつっているのは左からGauthier Aubert,Edmond Hervé(Maire de Rennes),Alain Croix,Michel Denisの順である。
Histoire_de_rennes
  この本の特徴はカラー図版、写真がふんだんに使用されていることだ。296ページある紙面の半分をしめているのだから。「まずは図版を選び、それから文章を書いた。写真としては質が悪いものもあるが、歴史的資料としての価値をかんがみ採用したものもある」とムッシュー・ドニは説明していた。

    古地図、メダル、中世の装飾写本、旧高等法院のイラスト、1720年の大火事、ドレフュス事件などなど、レンヌを舞台とする出来事が網羅されている。ローマ時代から現代にいたるレンヌの変遷を13人の歴史家が総力をあげて編集した美しい本だ。

  

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2006.11.15

ナント溺死刑の追悼式典と講演会

Colloque_25_mars_2006
  メインストリートには高級ブティックが軒を並べ、活気あふれる町Nantesナント。中世にはブルターニュの首都であった。今でもブルターニュ公の城があるが修復中で中にははいれない。

  その後、この町が繁栄したのは奴隷貿易だった。フランスの大河ロワール川をのぞむ一等地、フェイドー島とその周辺には冨を築いた商人たちがきそって豪華な館を建築した。それは以前奴隷制撤廃記念日を制定に書いたとおりである。

  さてフランス革命直後、ヴァンデ戦争と呼ばれる悲劇が起きた。ヴァンデのカトリック王党軍を追い詰めた国民公会議員のカリエは増加する囚人をてっとりばやく処刑する新しい方法を考えた。

  船に乗せてナントを流れるロワール川に生きたまま沈めてしまえばいいと。船に数十人を押し込めて川の中央に沈める。浮いてくるものには容赦なく銃弾があびせられた。しかも死人に洋服は無用というわけで、乗船前に衣類を剥ぎ取り売ったのだった。子供も含め総計6000人以上が溺死したと推定されている。さすがに非道な殺害方法だったので、のちにカリエ自身もギロチン刑となった。

  私はこのヴァンデ戦争の歴史を語り継ぐ2つの団体に所属しているので、この戦争の講演会や追悼式典には数十回参加している。メンバーと共に数々の旅をし、虐殺のあった現場に実際に足を運んできた。この週末はヴァンデ関連で別々の催しがあり、両方とも行くことにした。土曜日の講演会、日曜日も午前中のミサは無料なので、興味のある方は参加してほしい。ナント溺死刑の追悼式典と講演会は日曜日だ。

1)Troisième journéée d'étude sur l'Histoire militaire des guerres de vendée
L’Institut Catholique d’Etudes Supérieures (ICES) à La Roche sur Yon

2)Commémoration des ’Noyades de Nantes’
Messe en l’église Notre Dame de Bon-Port à Nantes (place du Sanitat)
Conférence au Musée Dobrée par Monsieur Thierry Piel ,
Professeur Agrégé d’Histoire de l’Université de Nantes

  虐殺があった事実を正しく認識すること、そしてそれを伝えること。こつこつと地道な努力を積み重ねている人たちがいるのである。

  

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2006.06.06

プランタジネット朝とエニシダのおしえ

  プランタジネット朝la dynastie des Plantagenêt(1154-1399年)とはイギリスの王朝名。名前の由来はマメ科の植物エニシダ(planta genesta 日本名は「金雀枝」)です。アンジュー伯Geoffroy Vジェフロワ5世がこの花をこのんで帽子に挿していたことから、王朝の名前になりました。(15世紀に子孫のヨーク公リチャードが用い、その後17世紀の歴史家が使い始めました)。王朝を開いたのは息子のHenri II d'Angleterreヘンリー2世です。  
  

Geoffroy V (né en 1113 - mort le 7 septembre 1151 au Mans), comte d'Anjou et du Maine, et plus tard duc de Normandie, appelé « Geoffroy le Juste » ou « Geoffroy Plantagenet », était le fils de Foulque V, comte d'Anjou et roi de Jérusalem et d'Erembourge du Maine, héritière du Maine. Il devint le fondateur de la dynastie des Plantagenêt des rois anglais.

Genet1
  今日のお話はこのエニシダ、フランス語ではle genêtジュネと呼びます。先日Saint Yves聖イヴのパルドン祭 その1で飾られていた黄色い花です。

  この花不思議な性質があると教えてもらいました。写真では知り合いの指に隠れて少しわかりにくいのですが、つぼみを手に取って、花の下の花弁の横をそっとこすります。すると、魔法のように花が開きます。Genet2右の写真のようになります。

  野に咲く花ですからミツバチが飛んできた時にその身体に花粉をつけて、受粉してもらうしくみなのです。自然というのは何て素敵なのでしょう。この花は太陽のエネルギー、ケルトの太陽神ルーの象徴なのです。勇気とか希望のおとずれを意味します。失意の底にあっても信念をすてないこと信念を貫くことがエニシダの教えです。

  でも友達のドイツ人(農業博士)にこの話をしたら、「虫がいるから気をつけたほうがいい。さわると皮膚にくいこんでうまく取らないと頭が皮膚の中に残ってしまうから」というので、またびっくり。そんな虫のこと、聞いたことがありませんでした。「フランスとドイツと種類が同じかどうかわからないけど・・・」ということです。

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