歴史

2008.01.26

ルイ16世 追悼ミサ

Louis16_stdenis

  1月21日は215年前にギロチンの露と消えたフランス国王Louis XVI ルイ16世の命日だった。処刑場所は革命広場(現在のコンコルド広場)だった。遺体は近くの墓地に埋葬された。そして1815年1月19日掘り起こされBasilique de Saint-Denis サン・ドニ大聖堂に移された。

    当時墓地だった場所は「ルイ16世広場」という小さな公園になっていて、Chapelle expiatoire 贖罪礼拝堂が建っている。日本人観光客で賑わっているギャルリー・ラファイエットやプランタンからすぐ側にあるのだが、実際に行ったことのある人は少ないだろう。

  私ははじめよく調べずに行ったものだから中に入れなかった。というのも開いているのは木、金、土の午後1~5時だけ。そこでいったんブルターニュに戻り、また日程を調整して出かけることになった。(片道2時間半かかるので再訪したのは半年後だったが)。それでも内部を見学していると後から数組やってきたから、忘れ去られているわけではないようだ。Louis16

  さて上の写真はサン・ドニ大聖堂で数年前に行われたルイ16世追悼ミサの様子。出席した日本人は私だけだった。ミサの後で地下のクリプトにあるルイ16世と王妃マリー・アントワネットの墓の前でお祈りをした。今年もフランス各地で追悼ミサが行われている。

  右の写真はサン・ドニ大聖堂にある王と王妃の像である。ここには歴代の王が埋葬されている。しかしフランス革命後王たちの遺体は棺から取り出されて、大きな穴に投げ込まれてしまったので誰のものであるか判別できない。

  今年の1月21日。日本では大雪が降った。ルイ16世が処刑された時もきっと寒かったのだろうと考えた。

  

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2007.11.29

女王ボウディッカとウサギ占い

Voadicea

  ボウディッカ(ブーディカ)はブリテン島南東部に暮らすイケニ族の女王だった。領地はローマによる属州となったのだが彼らは自治を許されていた。王プラスタグスは遺言で2人の娘に統治権を継承した。だがローマはそれを無視して蛮行におよぶ。女王ボウディッカは鞭打たれ、娘達は強姦されたのだ。さらに王の親族たちは奴隷に落ちぶれる始末だった。

  部族の誇りを汚されボウディッカはAC60年、反乱軍の先頭に立つ。これに周囲の部族も協力し、ローマ軍の歩兵部隊は壊滅。7万人が殺戮された。しかしローマ軍の反撃にあい、ついに反乱は鎮圧された。反乱軍の犠牲者は8万人にのぼった。そして女王は自ら毒をあおって果てた。その決戦の前に行われたのがウサギ占いだった。

"Let us, therefore, go against (the Romans), trusting boldly to good fortune. Let us show them that they are hares and foxes trying to rule over dogs and wolves." When she had finished speaking, she employed a species of divination, letting a hare escape from the fold of her dress; and since it ran on what they considered the auspicious side, the whole multitude shouted with pleasure, and Buduica, raising her hand toward heaven, said: "I thank thee, Andraste, and call upon thee as woman speaking to woman..."

「これにより、私たちを(ローマ人へ)向かわしめ、勇ましさと幸ある未来をご信託ください。彼奴らが、犬や狼を御そうとする野ウサギか狐であることをお示しください」彼女(ブーディカ)は祝詞を終えると、衣の襟を開いて野ウサギを放ち、予言の儀を執り行った。野ウサギは吉を兆す方へ駆け、群集は歓喜の声をあげた。ブーディカは掌を天に高く掲げつつ述べた。「アンドラステの神よ、感謝を捧げます。ひとりの女として、女性である貴女へ…」
Wikipedia

  忘れ去られた女王ボウディッカの名声が高まったのは19世紀、ヴィクトリア朝時代だった。桂冠詩人のアルフレッド・テニスンは詩を書き、海軍フリゲート艦隊の名称にも命名された。写真はロンドン中心部、ウエストミンスター橋のたもとにある女王ボウディッカの像だ。

  Enya エンヤの歌うboadiceaは1986年に英国BBC局で放映されたテレビシリーズThe Celts 幻の民 ケルトのサウンドトラックThe Celtsとして制作されたアルバムの中の一曲。私はこのDVDをフランスで購入した。その時インターネットで検索して一番安かったのはカナダの会社だった。送料はフランス国内と変わらなかったので喜んでいた。ところがよく確かめずに、リージョン1を買ってしまい再生できない。フランスも日本と同じリージョン2なのでそこまで考えていなかった。どうしても中身を見たかったので悩んだ末にパソコンをリージョン1に変更。(リージョンの変更は3回しかできない)。おかげで、それ以降フランスでDVDが見えなかったといういわく付きなのだ。

  カエサルは「兎と鶏と鵞鳥を食べるのはよくない」と述べていて、それは神聖視されていたからだと考えられているが、一方で、ウサギが生贄にされることもあったようだ。これらについてはまた次回に。

  ガリア戦記 (講談社学術文庫)
  ケルト神話・伝説事典
  海のかなたのローマ帝国―古代ローマとブリテン島 (世界歴史選書)
  世界古典文学全集〈第22巻〉タキトゥス (1983年)

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2006.11.21

Histoire de Rennes レンヌの歴史

Rennes_h
  この秋、発売された大型本Histoire de Rennesレンヌの歴史である。レンヌ市役所で出版記者会見も行われた。写真にうつっているのは左からGauthier Aubert,Edmond Hervé(Maire de Rennes),Alain Croix,Michel Denisの順である。
Histoire_de_rennes
  この本の特徴はカラー図版、写真がふんだんに使用されていることだ。296ページある紙面の半分をしめているのだから。「まずは図版を選び、それから文章を書いた。写真としては質が悪いものもあるが、歴史的資料としての価値をかんがみ採用したものもある」とムッシュー・ドニは説明していた。

    古地図、メダル、中世の装飾写本、旧高等法院のイラスト、1720年の大火事、ドレフュス事件などなど、レンヌを舞台とする出来事が網羅されている。ローマ時代から現代にいたるレンヌの変遷を13人の歴史家が総力をあげて編集した美しい本だ。

  

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2006.11.15

ナント溺死刑の追悼式典と講演会

Colloque_25_mars_2006
  メインストリートには高級ブティックが軒を並べ、活気あふれる町Nantesナント。中世にはブルターニュの首都であった。今でもブルターニュ公の城があるが修復中で中にははいれない。

  その後、この町が繁栄したのは奴隷貿易だった。フランスの大河ロワール川をのぞむ一等地、フェイドー島とその周辺には冨を築いた商人たちがきそって豪華な館を建築した。それは以前奴隷制撤廃記念日を制定に書いたとおりである。

  さてフランス革命直後、ヴァンデ戦争と呼ばれる悲劇が起きた。ヴァンデのカトリック王党軍を追い詰めた国民公会議員のカリエは増加する囚人をてっとりばやく処刑する新しい方法を考えた。

  船に乗せてナントを流れるロワール川に生きたまま沈めてしまえばいいと。船に数十人を押し込めて川の中央に沈める。浮いてくるものには容赦なく銃弾があびせられた。しかも死人に洋服は無用というわけで、乗船前に衣類を剥ぎ取り売ったのだった。子供も含め総計6000人以上が溺死したと推定されている。さすがに非道な殺害方法だったので、のちにカリエ自身もギロチン刑となった。

  私はこのヴァンデ戦争の歴史を語り継ぐ2つの団体に所属しているので、この戦争の講演会や追悼式典には数十回参加している。メンバーと共に数々の旅をし、虐殺のあった現場に実際に足を運んできた。この週末はヴァンデ関連で別々の催しがあり、両方とも行くことにした。土曜日の講演会、日曜日も午前中のミサは無料なので、興味のある方は参加してほしい。ナント溺死刑の追悼式典と講演会は日曜日だ。

1)Troisième journéée d'étude sur l'Histoire militaire des guerres de vendée
L’Institut Catholique d’Etudes Supérieures (ICES) à La Roche sur Yon

2)Commémoration des ’Noyades de Nantes’
Messe en l’église Notre Dame de Bon-Port à Nantes (place du Sanitat)
Conférence au Musée Dobrée par Monsieur Thierry Piel ,
Professeur Agrégé d’Histoire de l’Université de Nantes

  虐殺があった事実を正しく認識すること、そしてそれを伝えること。こつこつと地道な努力を積み重ねている人たちがいるのである。

  

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2006.06.06

プランタジネット朝とエニシダのおしえ

  プランタジネット朝la dynastie des Plantagenêt(1154-1399年)とはイギリスの王朝名。名前の由来はマメ科の植物エニシダ(planta genesta 日本名は「金雀枝」)です。アンジュー伯Geoffroy Vジェフロワ5世がこの花をこのんで帽子に挿していたことから、王朝の名前になりました。(15世紀に子孫のヨーク公リチャードが用い、その後17世紀の歴史家が使い始めました)。王朝を開いたのは息子のHenri II d'Angleterreヘンリー2世です。  
  

Geoffroy V (né en 1113 - mort le 7 septembre 1151 au Mans), comte d'Anjou et du Maine, et plus tard duc de Normandie, appelé « Geoffroy le Juste » ou « Geoffroy Plantagenet », était le fils de Foulque V, comte d'Anjou et roi de Jérusalem et d'Erembourge du Maine, héritière du Maine. Il devint le fondateur de la dynastie des Plantagenêt des rois anglais.

Genet1
  今日のお話はこのエニシダ、フランス語ではle genêtジュネと呼びます。先日Saint Yves聖イヴのパルドン祭 その1で飾られていた黄色い花です。

  この花不思議な性質があると教えてもらいました。写真では知り合いの指に隠れて少しわかりにくいのですが、つぼみを手に取って、花の下の花弁の横をそっとこすります。すると、魔法のように花が開きます。Genet2右の写真のようになります。

  野に咲く花ですからミツバチが飛んできた時にその身体に花粉をつけて、受粉してもらうしくみなのです。自然というのは何て素敵なのでしょう。この花は太陽のエネルギー、ケルトの太陽神ルーの象徴なのです。勇気とか希望のおとずれを意味します。失意の底にあっても信念をすてないこと信念を貫くことがエニシダの教えです。

  でも友達のドイツ人(農業博士)にこの話をしたら、「虫がいるから気をつけたほうがいい。さわると皮膚にくいこんでうまく取らないと頭が皮膚の中に残ってしまうから」というので、またびっくり。そんな虫のこと、聞いたことがありませんでした。「フランスとドイツと種類が同じかどうかわからないけど・・・」ということです。

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2005.11.23

長編歴史映画 Les rois maudits 呪われし王たち

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  長編歴史映画 Les rois maudits 「呪われし王たち」がテレビ局France2で現在放映中だ。というのは、エピソードが5話(各90分)にわかれていてすでに第4話まで放映されたからだ。

  時代は14世紀。フィリップ4世が統治していたころのフランスが舞台で、イギリスとフランスはこれから百年戦争に突入してゆくところである。陰謀や裏切りが渦巻く中世。建国間もないエルサレム王国の治安維持を目的として第一回十字軍のあとで結成されたテンプル騎士団は広大な所領をヨーロッパ各地に所有し、金融業を営んで巨万の富を築く。国王フィリップ4世は、騎士団の撲滅をはかり異端の疑いありと告発する。

  残忍な宗教裁判と厳しい拷問の末、テンプル騎士団は解散を余儀なくされる。多数のメンバーが火刑になった。ジャック・ド・モレーはめらめらと燃える火に身を焼かれながら、王や迫害者たちへの呪いの言葉を残す。騎士団の所領は聖ヨハネ騎士団に移管されたが、財産の一部は王の要求により王権に移譲された。そしてジャック・ド・モレーの予言どおりに呪われた人物はひとり、またひとりと命を落としてゆく・・・ 

  Maurice Druonモーリス・ドリュオン原作でJosée Dayanジョゼ・ダヤン監督の作品。なにしろ超大作。歴史も込み入っているし、登場人物が多いのでこれは誰だったかとよく考えないとわからない。

  その核となっているのがこの写真のふたり。Robert d'Artois ロベール・ダルトワを演ずるPhilippe Torretonフィリップ・トレトンはいつも真っ赤な洋服を着ていて他のテレビ番組では「赤いフェラーリね」なんてからかわれていた。ほかにこんな服装をした登場人物はいないので、すぐに区別できる。でも髪型がいつも乱れていて、櫛をかしてあげたいなあ。

  その叔母の伯爵夫人役はJeanne Moreauジャンヌ・モロー。波乱万丈の人生を雄々しくというかしぶとく生き抜いてゆく伯爵夫人を堂々と演じている。いったい何歳なのだろうと思って調べてみると、もう77歳。おそれいりました。

  映画の装飾が中世というより、いかにも現代風。サイトには、このデザインを手がけたYann Mercierのインタビューも載っている。「ある日監督から電話がかかってきて、あなたにお願いしたいおもしろいプロジェクトがある」と言われ「これまでの中世のイメージを覆すデザイン」を依頼されたいきさつが書かれている。これは好みの問題だろうがやはり異質な感じがする。

  来週の最終回はどうなるのかドキドキしながら待っているところだ。私は楽しみにしていたのに、先週月曜日の第3話を録画し忘れた。ちょうどナントに行った日だったので思い出したのは向こうについてからだった。第3話も見たいなあ・・・

  
    Les rois maudits 関連リンク
  
  Les rois maudits 公式ホームページ フランス語
  映画の内容、キャスティング、歴史解説など充実した中身。ここで復習できるのでありがたい。ホームページからDVDにダウンロード可(有料)

  Les Rois maudits 3枚組みDVD(上記写真)


22592028292259202853  Maurice Druonの原作本 
  Les Rois maudits, Tome 1 : Le roi de fer ; La reine étranglée ; Les poisons de la couronne

  Les Rois maudits, Tome 2 : La loi des mâles ; La louve de France

 2259202861

  Les Rois maudits, Tome 3 : Le lis et le lion ; Quand un roi perd la France
 



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2005.08.14

祭りを盛り上げる人たち

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  夏の間、ほとんど毎日、各地でイベントが行われていますが、その時代にあわせた装いをした人たちがいるとそれだけでお祭り気分が高まります。La Saltarelleという文化協会は1990年に設立され、中世、ルイ14世統治時代、第二帝政時代(ナポレオン3世)などの衣装を身につけ、そのころのダンスや歌を披露することを目的としています。

  Menuをクリックすれば、どんな様子なのかわかります。ブルターニュのあちこちの時代祭りに参加しているようです。名前のサルタレロとは16世紀イタリア起源の3拍子の舞曲だそうです。どんな曲なんでしょうか。聞いてみたいですね。

  写真は記事とは全く関係ないのですが昨年Dinanの祭りでみた入浴風景です。

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2005.07.17

教皇ピウス十二世とナチス

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  たった今1冊の本を読み終わったばかりだ。
ローマ教皇とナチス 大澤 武男 文春新書 2004

    今年亡くなったヨハネ・パウロ二世(在位1978~2005)は第264代の教皇だったが、この本の主人公は第260代のピウス十二世(在位1939~1958、本名エウジェニオ・パチェリ)である。1876年ローマ生まれ。1899年に若干23歳で司祭になっている。第一次、第二次世界大戦のまっただなかで地上におけるキリストの代理者はどう生きたのか。読み応えがある。

  祖父、父親が俗人の教会法顧問として教皇庁に奉職していた関係もあって、18歳で司祭となることを決め、平均睡眠時間4時間、パン、水、果物中心の粗食を生涯つらぬき高潔な人格であったと伝えられるが、反ナチスの態度を変えなかった前任のピウス十一世をなだめて1933年にヒトラー内閣と政教条約を終結させ、それによって軍隊を持たないヴァティカンを守ろうとしたのだ。

  なぜならヒトラーこそ、共産主義に抗戦しうる唯一の国家元首であると評価したからである。だがナチスは罪なき人々を次々と殺戮してゆく。セルビア人、ユダヤ人、ロマ、そして非健常者の安楽死計画も明るみにでる。1941年にはドイツで抗議の声をあげた3700人の聖職者さえも強制収容所に送られた。それでもピウス十二世は沈黙したままだった。後にユダヤ人虐殺を知ってもナチスを名指しで非難しようとしなかった。

  だがヴァティカン市国の中にもユダヤ人が匿われていた事実もある。ピウス十二世もナチスの虐殺に胸を痛めていたはずだ。それに米英政府も航空撮影を行っていたにもかかわらず、アウシュヴィッツ絶滅収容所を爆撃することはなかった。もしあの時と考えたらきりがないが、ピウス十二世がナチスを容認しなければ、また早期に爆撃が行われていれば、ユダヤ人犠牲者の数は少なくなっていたことだろう。大澤さんは次のように書いている。

  

キリストが説く神の声に耳を貸さず十字架にかけて殺し、その天罰として祖国を失い放浪を続けるわずらわしい民、キリスト教の隣人愛の教えに反する高利貸によって富を築き、社会が困窮しているときにかえって私腹を肥やしている人々・・・・・ヨーロッパのキリスト教社会に潜む、こうした反ユダヤ思想が、ユダヤ人を救うための意思をキリスト教徒から奪ってしまったのである

  2002年にヨハネ・パウロ二世はヴァチカン文書館が所有する第二次大戦中のドイツ関係未公開史料を公開するよう指示したと言うが、すでに公刊されている史料集ではまだ全貌はわからない。それでもユダヤ人の強制輸送に協力した者が世界中にたくさんいるのも事実である。

  今年はアウシュビッツ強制収容所・解放60周年であった。我々にできること、それは過去を真摯に受け止め、新たな紛争を起こさないことだろう。すべての命を慈しむことを一緒に考えよう。


      参考資料

  歴代の教皇を写真いりで紹介しているすごいサイトがある。

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2005.06.09

クリッソン城

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  クリッソン城はブルターニュ、アンジュー、ポワトゥーのちょうど交差点に位置し、中世にはブルターニュ公が拠点のひとつとしていた城である。13世紀にGuillaume de Clissonギョーム・ドゥ・クリッソンが建築、その後数世紀をかけて増築された。100年戦争のころにはDu Guesclinデュ・ゲクランも闊歩したはずだ。

    左の写真は城の全景を数キロはなれたセーブル川の対岸から撮影したもの。右の写真が歴代の領主が住まいとしていた部分である。フジェール城よりも建物の保存状態がよく、とても美しい廃墟である。フランス革命後に起きたヴァンデ戦争の折に城は焼きはらわれ、住民は惨殺されてその遺体は城にある井戸に投げ込まれた。私が訪れた時にはちょうどこの井戸の横で、地元の小学生たち30人くらいが中世の暮らしについて先生から説明を聞いていたところだった。

ch_clisson1
  クリッソンの町は人口2万人なのだが、イタリア風の建物がたくさんあってとても調和のとれたたたずまいである。中世のロマネスク教会も2つ残っている。急行列車に乗るとナントまでわずか20分。ここに住んで、ナントで働くというのは理想的ではないかと思う。私が「ここに住みたくなった」というと「たくさんの人がそう言うのよ」と観光案内所の人が笑いながら返答した。

Château de Clisson
Horaires d'ouverture : 9h à 12h et 14h à 18h tous les jours sauf le mardi,
Fermé le lundi d'octobre à mars
Fermé pendant les vacances scolaires de Noël
Tarifs : Plein : 2,20 € - Réduit : 1,5 €
Tél. : 02.40.54.02.22

Clissonの町のホームページ
2005年7月8~10日にイタリアンフェア、8月6日、7日に中世の祭りがある。

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2005.06.07

ヴァンデの旅

  金曜の午後から2泊3日で、中世の城とヴァンデ戦争の史跡をめぐる旅をしてきた。考えてみたら泊りがけで出かけたのは今年はじめてだ。金曜はひとりでクリッソンの町を訪ねた。メインの土曜日は朝7時に出発、約50人が大型バスで移動した。帰ったら日付がかわっていたという超ハードスケジュールだった。日曜は小グループで史跡を見に行って、夜レンヌに帰宅した。幸い天候にめぐまれて日焼けしてもどってきた。写真を整理して明日はクリッソン城を紹介しようと思う。

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2005.05.09

第二次大戦勝利記念日

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  5月8日は第二次大戦勝利記念日の祝日。レンヌでは毎年市役所前広場で記念セレモニーが行われる。1945年5月7日、ベルリン陥落、そしてナチが無条件降伏した翌日なのである。レンヌも空襲でたくさんの建物が崩壊し死傷者がでているし、古い教会のステンドグラスなども残っていないという。そう考えれば、この美しい市役所が残っているのは奇跡のようだ。

  高らかに国歌マルセイエーズが響きわたり、退役兵たちがずらっと並ぶ前で現役の兵士たちが行進する。ナチが降伏して、日本に原爆が投下され戦争が終わったという経緯が語られるのだが、ここで敵国として日本の名前を聞くのは少し複雑ではある。

  2年ほど前には広場に実戦で使用された本物の戦車が展示され、兵器もずらっと並んでいた。そこではじめて戦車に触れたし、戦場で使われた武器をまじかに見た。子供たちは兵士にねだって戦車の操縦席に乗せてもらい笑顔で写真撮影していた。

arme
  パネルに武器の使用方法やその効力などの説明があったが、それらが使用された後の状況を考えると身体が震えた。終戦からすでに60年がたち、その記憶も日本では薄らいでいるが、フランスではつい数年前まで10ヶ月の兵役が義務づけられていたので、若い世代でも武器の扱い方は知っているのだ。いざとなればみんな自己防衛できるだけの知識は持ち合わせている。

  いつから女性が兵士として戦場にでていたのかはわからないが、女性たちが兵士となるため兵学校に入学して男性とともに厳しい訓練をうけている現状がある。今日の1時間半くらいの式典の最中でも立ちくらみを起こした2人が隊列から離れるのを見たがいずれも男性であった。隣にいた女性が「以前は看護婦として戦地に行く女性はいたけれど、銃は手にしたりしなかったのに時代がかわったのね」と話してくれた。

  


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2005.04.01

中世の門 (レンヌ)

porte     中世ヨーロッパではお城だけでなく、街じたいが分厚い壁で囲まれていて人々の暮らしはこの壁の中でいとなまれていました。旅人たちはこの門から一歩外に出ると追いはぎに襲われる危険もありました。反対に戦争時にはこの壁が、いわゆる要となって、外敵の攻撃を防いだのです。

  写真はレンヌに残る15世紀のPortes-Mordelaisesモルドレーズ門です。ここは門の外側にあたり、入るとすぐにカテドラルがあります。当時はほかにも門がありましたが、残っているのはここだけです。甲冑に身をつつんだ騎士たちが馬にまたがり通っている姿を想像してみてください。

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2005.02.24

ケルトについて考える

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  このところ、頭から離れないのがケルトという言葉。ケルトを追いかけて地球の裏側までやってきたのに、古代ブリタニアにケルト系の人たちは来なかったという説がだんだん優勢になってきているというのだ。そのことは耳にはしていたが、フランスではケルトを扱う新しい雑誌もでているし(新雑誌Univers CELTES創刊参照)、レンヌにあるレンヌ第二大学のブレイス語学部ではケルトの歴史という講義もこれまでどおり続いている。歴史学部でもブレイス語の歴史という講義で中世におけるケルト系の各言語の比較をやっていた。ここでも従来のケルトの概念を継承して説明されている。だから、あまり気にしていなかったのである。

  最近東京でケルティックジュエリーやアイルランド、スコットランド製品を扱っているボウディッカという素敵なお店があることを知った。もうすぐブルターニュの製品も入荷するそうだ。このサイトの中のケルティックデザイン史概説というエッセイには英国の美術館やテレビ番組からケルトという言葉が消えたと書かれている。メールでお話させてもらったが、やはりブルターニュと温度差があるようだ。

  もう一度ケルトを見直す時期がきたのかもしれない。これは私がこれまで学んできたこと、考えてきたこと、すべてに深く関わっている問題である。これから専門家の意見を聞き、疑問をひとつずつ検証してみたい。そして、その経過を右サイド(下のトラックバック・ピープル ケルト)にまとめて記していこうと思う。そうでないと、ブルターニュを語ることはできないからだ。

tbp01015-0

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2005.02.19

フランの硬貨はもう交換不可

franc  私のへそくりをみなさんに公開します。でもこのへそくり、じつは昨日で一般的価値はなくなりました。これからは骨董として価値がでるのを待つしかありません。そうです。2002年の2月17日までフランスの通貨として流通していたフランとサンチームです。(1フラン=100サンチーム) その翌日からユーロしか支払いには使用できなくなっていましたが、銀行で交換することは可能でした。紙幣は2012年まで、交換できます。

  それまでフランは紙幣で5種類、硬貨で9種類が流通していました。硬貨の縁には自由・平等・博愛(LIBERTE EGALITE FRATERNITE) と書かれています。写真は20F、 5F、2Fがありません。これじゃコレクションになりませんね。まだ家の中のどこかにあるかもしれませんが・・・

    紙幣           硬貨
   500フラン           20F
   200フラン          10F
   100フラン           5F
    50フラン           2F
    20フラン           1F
                  1/2F
                   20C
                   10C
                   5C

  メトロでくばられている新聞にフランの641年にわたる歴史が書かれています。これによると誕生は1360年12月5日。でもそれからエキュという通貨が主流になったので、姿を消していました。革命時期に少しだけ用いられたことがありましたが、本格的に利用されるようになったのは20世紀にはいってからでした。1914年に国が紙幣の流通をうながしたのです。1958年には1フラン=100旧フランという切り替えもありました。

  もう役目を終えてしまったこの硬貨たち。概算では30億の硬貨が交換されずに残っていると推測されています。6億ユーロ=810億円です。私のように記念に残している人もいるでしょうし、忘れている人もいるでしょう。さすがに紙幣はありませんが。ひさしぶりにながめて懐かしかったです。

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2005.01.22

ナポリ王ジョセフ・ボナパルトの紋章

Joseph_Naples

  不思議なモチーフの紋章を見つけました。掲示板のおしゃべりでtriquêtreという単語を探したのがきっかけなのですが、私自身はじめて目にするモチーフだったのでここにも載せることにしました。

  この紋章の持ち主であるJoseph Bonaparteジョセフ・ボナパルト(1767.1.7~1844.7.28)はナポレオンの兄です。ナポリ王(1806~1808)とスペイン王(1808~1813)になりましたが、在位していたのはわずかな期間です。

  さてそのモチーフとはtriquêtre (trois jambes posée en pairle issante d'une tête de Mercure) メルキュールの頭から3本の足がでているというもの。古代のメダルにも使用されていたらしいのですが、どこでどのようなかたちで表記されていたのか、今のところこれ以上のことはわかりません。

  ほかの紋章を見ると、同じモチーフでもはだしではなくて拍車のついた靴をはいているものもありますね。ほかに何か情報をお持ちの方はお知らせください。

     追加情報

  マン島のケルト神話 参照

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2005.01.14

古代オリエントを想う

london  先日見た映画アレキサンダーでバビロンの青いイシュタル門がでてきたのだが、この門は現在はVorderasiatisches Museumベルリンのベルガモン博物館にある。その写真はここで。探し当ててとてもうれしい。つくづく、インターネットの便利さを実感。机の前ですぐに見られるなんて、子供の時に使いこなせていたら、もう少し勉強するのが楽しかっただろうと思う。

  今日の写真はThe British Musium大英博物館に行ったときに撮ったお気に入りの翼のある守護神像。この像が置かれていたころの宮殿の様子を想像するのは楽しいものだ。アッシリア時代のものでRoom8に説明がある。

  もうずいぶん前のことだが、古代オリエントにはまっていた時期があった。ギルガメシュ叙事詩やメソポタミヤ文明など。いろいろ読んだが特に小川英雄さんの本がおすすめ。私の尊敬する著名な考古学者である。ギルガメシュ叙事詩は文庫になっているくらいだから、読んでいる人が案外いるのだろう。絵本まであることにおどろいた。いつか遺跡めぐりができたらいいなと思う。

    参考文献

世界の歴史―ビジュアル版 古代のオリエント 小川英雄著 講談社 1984
ギルガメシュ叙事詩 矢島文夫訳 ちくま学芸文庫 1998
ギルガメシュ王のたたかい 大型絵本 ルドミラ・ゼーマン著 岩波書店 1994

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2004.12.04

ナポレオン戴冠式200周年

  ナポレオンがパリのノートルダム大聖堂で戴冠したのは1804年12月2日だった。「ガーター亭別館」のナポレオンの戴冠という記事にマスコミの反応が書かれている。テレビのニュースではコルシカ島で行われた記念式典の様子が詳しく紹介されていた。小雨の中街にはたいへんな人たちが繰り出して興奮した様子でナポレオンについて語っていた。

  Le Sacre de Napoléonという展示会がルーブル美術館で開催されていて、説明がFRANCE 5 EDUCATIONにある。Jacques-Louis Davidが描いたLe sacre de l'empereur Napoléon Ier et le couronnement de l'impératrice Joséphine le 2 décembre 1804がここで見られる。

  ところでナポレオンの紋章がabeilleミツバチであることはよく知られているが、彼が好きだった花は何か知っているだろうか。これはテレビのクイズ番組で出題されていた。答えはvioletteスミレだそうだ。書籍はたくさんでているが1冊だけあげるならこれがわかりやすいだろう。ナポレオン (皇帝編)歴史群像シリーズ (47) 学研 1996

Musées Nationaux Napoléoniens ナポレオンに関する美術館情報

    追加

  ナポレオンの映画について 12月29日

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2004.07.26

ブルターニュ 中世の祭り Dinan ディナン

dinan.jpg  夏のブルターニュを旅するのに便利なのが、Pass Bretagneパス・ブルターニュという切符である。ブルターニュ内なら、まる一日どこで列車を乗りおりしても10ユーロ均一料金なのである。(土曜日だけ利用可。TERのバスも含むがTGVは省く)。7月24日、この切符を買ってDinanディナンに行くことにした。レンヌ・ディナン間の通常料金は片道17,1ユーロなので、3分の1の料金ですんだ。

  目的はFête des remparts城壁祭りを見ることだ。期間は7月24,25の2日間で、1983年にはじまり今回が16回目であった。電車を降りると町じゅうが美しい花や旗などで飾りたてられていて、祭り気分が高まってくる。各商店の店員たちもそれぞれ中世の衣装をまとっていて、歩いているだけでも楽しい。広場で売られているみやげ物もそれらしいものばかりで、その場で買った衣装を身につけて歩き出すアメリカ人観光客もたくさんいる。

  なぜかといえば、城壁の数ヶ所で行われている特別の会場にはいるには10ユーロいるのだが、中世の服を着ている人は無料になるので、いい記念になると服をおみやげにする人も多いのである。もちろん無料の催しもいろいろあるが、なりきったほうが楽しそうである。中世の暮らしや仕事などなどが再現され、あちこちの鍋からおいしそうな匂いがただよってくる。縄を編んでかごにしている人に「これがあなたの仕事なんですか」と聞いてみた。すると「ちがうわよ。私たち夫婦はフランス南部に住んでいて、ほかの仕事をしているんだけど、こういう祭りがあると、あちこちに招かれるの。外国にだって行くのよ」と言う。何かの技術を習得すれば、そういうことも可能なのだと、すっかり納得してしまった。

  昔から城が築かれるのは小高く見通しのきく場所であった。ここDinanディナンも標高75メートルあり、あたりを見下ろすことができるのである。見事な城壁のすぐ外側でLe Tournoiと呼ばれるトーナメントを見ることにした。ブルターニュ公が主催した華麗な馬上戦の再現だ。馬を疾走させながら槍を操る技術は素晴らしかったのだが、10ユーロ支払うにはもう少し演出に工夫があってもよかったと思う。ここで前回2002年の写真を見ることが出来る。それから中世の衣装をまとって人々が町を歩くのを楽しみにしていたのだが、行列だけを比較すれば、VannesヴァンヌのFêtes historiques de Vannesヴァンヌ歴史祭りの方が見ごたえがある。

  それでも、中世の木組みの家々を眺めながら町を散策するのは心地よかったし、久々に暑い日だったので、アイスクリームを食べて夏の一日を満喫した。どんな天気になるかわからなかったので、上着と傘をもっていたのだが、とてもいい天気ですっかり日焼けして帰ってきた。古地図を持って、また行きたい町である。

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2004.07.25

ブルターニュ 中世探訪

st_aubin2.jpg

 金曜日の午後、バスに乗ってSt Aubin du Cormierサン・トーバン・デュ・コルミエへ出かけた。
L'Histoir de la Bretagneブルターニュの歴史という展示会を見るためだった。カラー写真をふんだんに用いた手作りのパネルが会場いっぱいに並び、本やビデオなどの販売も行われていた。

   戦いの記念碑のある場所を尋ねると、「数キロあるから車で連れていってあげよう」と言ってくれた。記念碑は道路沿いにあったのだが、古いものがさらに奥にあるという。腰の高さくらいまで伸びた雑草をかき分けながら500メートルほど歩くと、自然の岩盤の上に十字架が立ち、パネルがはめこまれてあった。ぜったいひとりでは探せない場所だったので、本当にありがたかった。そのあと、城の廃墟にも立ち寄った。城壁や塔が半分くずれた状態で残っていた。廃墟とはいっても、その規模は想像以上に大きくて驚いた。展示会場にもどり、貴重な話をたくさん聞くことができた。再会を約束して午後7時に会場を後にした。

  土曜日は列車でDinanディナンに行った。Fête des remparts城壁祭りと呼ばれる中世の祭りである。ディナンに行くのは4回目だったのだが、いずれも時間が2-3時間だけだったので、同じところしか見ていなかった。今回朝から夕方まで、町中くまなく歩き回り、やっと全貌のあらましがわかったのだが、これまた、城壁の規模の大きさと保存状態のよいことに感心した。再訪して、ゆっくり歩いてみたいと思う。祭りについては、日をあらためて書きたいと思う。

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2004.07.17

ダヴィッド・ダンジェのボンシャン侯爵像

 すでにほかで発表したエッセイダヴィッド・ダンジェのボンシャン侯爵像をプロフィールのところにのせました。徳島の彫刻文化を進める会の会報誌「光」28号に掲載されたものです。

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2004.07.03

ふくろう党パリ集結

chouan.jpg 6月27日、私もこの集団にまじって、パリのコンシェルジュリーから市役所まで歩きました。今回パリにいったのはこれに参加するためでした。観光客があつまってきて、「何やってるの」なんて写真を撮りながら遠巻きに見ています。でもこれはただのコスプレ集団ではないのです。

  革命後、反共和国政府の蜂起がおこったことはヴァンデ戦争・語られざる惨劇(3月29日参照)でも書きましたが、もう一度書きます。革命から4年後の1793年、ロワール川南部のヴァンデ一帯で反革命の狼煙があがり「カソリック王党軍」が結成されました。それにブルターニュやノルマンディーの「ふくろう党」と呼ばれる蜂起軍も加わり、各地で激戦を繰り広げたのですが、年内に共和国軍にほぼ制圧され以後はゲリラ戦が主流になります。いわゆる「ヴァンデ戦争」です。
 
  今年はCadoudalカドゥダルがパリの現在の市役所前広場で処刑されてちょうど200年にあたり、その追悼式典が行われたのです。フランス人でも知っている人は多くないでしょうし、知っていても式典に参加する人は100人たらずでした。もうひとり日本人の友人も教会のミサには参加していたのですが、その後市役所まで歩いたのは私だけでした。最後に処刑された場所で再度祈りをささげ、献花して解散となりました。こんなパリの一場面があることも、まぎれもない事実です。

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2004.06.06

ノルマンディー上陸作戦から60年

normandie1.MZZZZZZZ.jpg  ノルマンディー上陸作戦は6月6日に決行された。今日は60周年の記念式典が行われている。昨日夜テレビで前夜祭の模様が生放送されていた。たくさんの人が次々と体験を語った。実際に19歳でこの作戦に参加していた兵士の証言。寝る暇もなく怪我人の世話をつづけた看護婦。パラシュート隊が降りてくるのを目撃した当時10歳の少年の話などなど。

  トム・ハンクス主演のプライベート・ライアン という映画の一部が巨大スクリーンに映し出された。上陸しようと試みる兵士たちが狙いうちされてゆく。ある兵士はちぎれてしまった自分の腕を見つけて走り出す。瞬く間に死体の山ができ、海が血で真っ赤になる。「まさにこうでした」と話す退役兵の言葉がとても重い。プライベート・ライアンはオスカー5部門に輝いた、スティーヴン・スピルバーグ1998年の作品である。

  アイゼンハワーの指揮下で連合国軍の艦船4600(戦艦7、巡洋艦23、駆逐艦123)、重爆撃機2500機、戦闘機・戦闘爆撃機7000機、兵員17万5000人が投入されたノルマンディー上陸作戦は6月6日を歴史にのこる日にしたのである。Site officiel du 60ème anniversaire du Débarquementノルマンディー上陸作戦60周年公式ホームページを開くと上にもうひとつ窓が立ち上がってくるのでそれをクリックすると、作戦を詳しく解説してくれる。

  今年はブッシュ米大統領や英国のエリザベス二世など、約十五カ国の連合軍側の首脳が出席するほか、ドイツのシュレーダー首相が初めて特別招待されていて、テロにそなえ、30日からフランス全土が最高度の警戒レベル「赤」に指定されている。

  まだ戦争の記憶が残るノルマンディーの海岸。テレビからは参加国それぞれの海軍音楽隊による音楽の演奏が聞こえてくる。今ジャズの演奏が行われていて、アナウンサーが「アメリカ軍はコカコーラ、ガムなどの新しい文化をノルマンディーに持ち込んだ」と感想を述べている。フランスはブルターニュの音楽を演奏している。ここに参加している人たちが、もう二度と敵味方に分かれて殺しあわずにすみますように。

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2004.05.08

ドイツ館・戦争俘虜がもたらした堅い交流の絆

doitu.jpg  徳島県鳴門市はドイツのリューネブルクと姉妹都市で、活発な国際交流が行われている。ベートーベンの「交響曲第九番」が日本ではじめて演奏された地でもある。

  物語は第一次世界大戦下の1917年にさかのぼる。この年、ドイツの租借地であった青島から約4,700人のドイツ兵が俘虜として日本各地の収容所に送られたのである。このうち約1,000人が1917年からほぼ3年間を、板東俘虜収容所で過ごすことになったのだ。この収容所では、戦争という非常時にあっても俘虜たちの人権を尊重し、可能なかぎりの自由を認めていた。

  俘虜たちは所内に80軒余りの商店、レストラン、印刷所、図書館、音楽堂などの施設を設け、健康保険組合や郵便局まで持っていた。また、スポーツ、音楽、演劇など文化活動も許されており、100回以上の演奏が行われた。その活動は所内だけにはとどまらず、一般市民とも交流の機会が与えられた。

  今でも鳴門市内には、ドイツパンを販売している店があったり、俘虜がつくったドイツ橋も残っている。ドイツ館は1972年に感謝をこめて元俘虜たちから寄贈された資料を展示する施設として建設されたのである。現在のドイツ館は1993年に新築移転されたものである。もう当時の俘虜たちは亡くなってしまったが、その志は子供や孫たちに受け継がれているのだ。

  ドイツ館のすぐ近所に四国八十八ヶ所めぐりの第1番札所がある。見知らぬお遍路さんに接待する伝統がここには根付いている。それが直接俘虜たちへの対応に結びついたわけではないが、言葉の壁を越えた心の交流があったことは確かである。


  鳴門市ドイツ館
  〒779-0225 徳島県鳴門市大麻町桧字東山田55番地の2
  TEL(088)689-0099   FAX(088)689-0909
  


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ブルターニュの城 その1

  ブルターニュを守るためLe Château Fort要塞として築かれたFougèresフジェール城内を散策していると、甲冑に身を固め戦っている騎士たちの幻が見えそうな気がする。建築が開始されたのは1020年だが、1166年にはイギリス王ヘンリーⅡ世によって火を放たれ被害を受けた。

  その後も15世紀まで繰り返し戦いの舞台となり、その度に改築が行われ、現在の規模になった。マイフォトに写真を掲載したが、城の入口付近は12世紀のものである。城内の写真で柱だけ残っているところが、かつて城主の部屋があった場所である。厚い城壁と敵を見張るために使用されていた塔が、この城で繰り広げられた幾多の戦いの証人である。

  堀に守られ野犬が近づくことが出来ないので、今では城の外壁にたくさんのウサギが住みついていて、観光客の視線をくぎ付けにしている。

 
    観光情報

  Château :Place Pierre Symon 35300 Fougères
  Tél.: 02.99.94.88.67   Fax : 02.99.94.88.08
  Le château est ouvert tous les jours :休日なし(1月は休み)
    - En saison de 9 h à 19 h
    - Hors saison de 9 h 30 à 12 h et de 14 h à 18 h
    
  フジェール観光案内所