歴史

2010.10.29

BBC地球伝説 歴史シリーズ

  BS朝日、午後8時から「BBC地球伝説」という番組がある。先週たまたま見たのが「イギリス・華麗なる芸術の旅」の第一話の最後のほうだった。ちょうどノルマンディーにあるバイユーで保管されているLa Tapisserie de Bayeux タペストリーの説明をしているところだった。1066年のノルマンディ公Guillaume ギヨームとイングランド王Harold ハロルドによる決戦の様子が刺繍され、ユネスコの世界遺産にもなっている逸品である。

  私は現地で実物を3度見たがまだ鮮やかな色彩が残っていて当時の風俗がわかる貴重なものだ。Musée de la Tapisserie de Bayeuxの内部はこの貴重な歴史遺産を守るため照明がおとされ薄暗くなっている。それから中世から現代までの7回シリーズはどれもおもしろかった。

  昨晩は「ジュリアス・シーザー ガリア戦記をめぐる旅」で、ウェルキンゲトリクスとのガリアでの攻防が非常によく描かれていた。ガリア軍は焦土作戦でカエサルひきいるローマ軍の食糧を断ち、じわじわと追い込んでゆく作戦だったのだが、最後の戦いとなったアレシアでは立場が逆転し、決戦に敗れたウェルキンゲトリクスは捕虜としてローマに連行されてゆく。

  自らの暮らす大地に火を放ち敵を翻弄するその姿にふとブルターニュで見たドキュメンタリー映画を思いだした。Plogoff, des pierres contre des fusils プロゴフ、銃には石をだ。祖国や故郷を守るために最後まで戦い抜く、そのひたむきで熱き心は現代にも生き続けているのだと。


    < 関連エントリー >

  カエサルのガリア戦記

  ランキングに参加しています。一日一クリック、ご協力おねがいします。
    ↓↓↓
  にほんブログ村 外国語ブログ フランス語へ 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008.01.26

ルイ16世 追悼ミサ

Louis16_stdenis

  1月21日は215年前にギロチンの露と消えたフランス国王Louis XVI ルイ16世の命日だった。処刑場所は革命広場(現在のコンコルド広場)だった。遺体は近くの墓地に埋葬された。そして1815年1月19日掘り起こされBasilique de Saint-Denis サン・ドニ大聖堂に移された。

    当時墓地だった場所は「ルイ16世広場」という小さな公園になっていて、Chapelle expiatoire 贖罪礼拝堂が建っている。日本人観光客で賑わっているギャルリー・ラファイエットやプランタンからすぐ側にあるのだが、実際に行ったことのある人は少ないだろう。

  私ははじめよく調べずに行ったものだから中に入れなかった。というのも開いているのは木、金、土の午後1~5時だけ。そこでいったんブルターニュに戻り、また日程を調整して出かけることになった。(片道2時間半かかるので再訪したのは半年後だったが)。それでも内部を見学していると後から数組やってきたから、忘れ去られているわけではないようだ。Louis16

  さて上の写真はサン・ドニ大聖堂で数年前に行われたルイ16世追悼ミサの様子。出席した日本人は私だけだった。ミサの後で地下のクリプトにあるルイ16世と王妃マリー・アントワネットの墓の前でお祈りをした。今年もフランス各地で追悼ミサが行われている。

  右の写真はサン・ドニ大聖堂にある王と王妃の像である。ここには歴代の王が埋葬されている。しかしフランス革命後王たちの遺体は棺から取り出されて、大きな穴に投げ込まれてしまったので誰のものであるか判別できない。

  今年の1月21日。日本では大雪が降った。ルイ16世が処刑された時もきっと寒かったのだろうと考えた。

  

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2007.11.29

女王ボウディッカとウサギ占い

Voadicea

  ボウディッカ(ブーディカ)はブリテン島南東部に暮らすイケニ族の女王だった。領地はローマによる属州となったのだが彼らは自治を許されていた。王プラスタグスは遺言で2人の娘に統治権を継承した。だがローマはそれを無視して蛮行におよぶ。女王ボウディッカは鞭打たれ、娘達は強姦されたのだ。さらに王の親族たちは奴隷に落ちぶれる始末だった。

  部族の誇りを汚されボウディッカはAC60年、反乱軍の先頭に立つ。これに周囲の部族も協力し、ローマ軍の歩兵部隊は壊滅。7万人が殺戮された。しかしローマ軍の反撃にあい、ついに反乱は鎮圧された。反乱軍の犠牲者は8万人にのぼった。そして女王は自ら毒をあおって果てた。その決戦の前に行われたのがウサギ占いだった。

"Let us, therefore, go against (the Romans), trusting boldly to good fortune. Let us show them that they are hares and foxes trying to rule over dogs and wolves." When she had finished speaking, she employed a species of divination, letting a hare escape from the fold of her dress; and since it ran on what they considered the auspicious side, the whole multitude shouted with pleasure, and Buduica, raising her hand toward heaven, said: "I thank thee, Andraste, and call upon thee as woman speaking to woman..."

「これにより、私たちを(ローマ人へ)向かわしめ、勇ましさと幸ある未来をご信託ください。彼奴らが、犬や狼を御そうとする野ウサギか狐であることをお示しください」彼女(ブーディカ)は祝詞を終えると、衣の襟を開いて野ウサギを放ち、予言の儀を執り行った。野ウサギは吉を兆す方へ駆け、群集は歓喜の声をあげた。ブーディカは掌を天に高く掲げつつ述べた。「アンドラステの神よ、感謝を捧げます。ひとりの女として、女性である貴女へ…」
Wikipedia

  忘れ去られた女王ボウディッカの名声が高まったのは19世紀、ヴィクトリア朝時代だった。桂冠詩人のアルフレッド・テニスンは詩を書き、海軍フリゲート艦隊の名称にも命名された。写真はロンドン中心部、ウエストミンスター橋のたもとにある女王ボウディッカの像だ。

  Enya エンヤの歌うboadiceaは1986年に英国BBC局で放映されたテレビシリーズThe Celts 幻の民 ケルトのサウンドトラックThe Celtsとして制作されたアルバムの中の一曲。私はこのDVDをフランスで購入した。その時インターネットで検索して一番安かったのはカナダの会社だった。送料はフランス国内と変わらなかったので喜んでいた。ところがよく確かめずに、リージョン1を買ってしまい再生できない。フランスも日本と同じリージョン2なのでそこまで考えていなかった。どうしても中身を見たかったので悩んだ末にパソコンをリージョン1に変更。(リージョンの変更は3回しかできない)。おかげで、それ以降フランスでDVDが見えなかったといういわく付きなのだ。

  カエサルは「兎と鶏と鵞鳥を食べるのはよくない」と述べていて、それは神聖視されていたからだと考えられているが、一方で、ウサギが生贄にされることもあったようだ。これらについてはまた次回に。

  ガリア戦記 (講談社学術文庫)
  ケルト神話・伝説事典
  海のかなたのローマ帝国―古代ローマとブリテン島 (世界歴史選書)
  世界古典文学全集〈第22巻〉タキトゥス (1983年)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006.11.21

Histoire de Rennes レンヌの歴史

Rennes_h
  この秋、発売された大型本Histoire de Rennesレンヌの歴史である。レンヌ市役所で出版記者会見も行われた。写真にうつっているのは左からGauthier Aubert,Edmond Hervé(Maire de Rennes),Alain Croix,Michel Denisの順である。
Histoire_de_rennes
  この本の特徴はカラー図版、写真がふんだんに使用されていることだ。296ページある紙面の半分をしめているのだから。「まずは図版を選び、それから文章を書いた。写真としては質が悪いものもあるが、歴史的資料としての価値をかんがみ採用したものもある」とムッシュー・ドニは説明していた。

    古地図、メダル、中世の装飾写本、旧高等法院のイラスト、1720年の大火事、ドレフュス事件などなど、レンヌを舞台とする出来事が網羅されている。ローマ時代から現代にいたるレンヌの変遷を13人の歴史家が総力をあげて編集した美しい本だ。

  

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006.11.15

ナント溺死刑の追悼式典と講演会

Colloque_25_mars_2006
  メインストリートには高級ブティックが軒を並べ、活気あふれる町Nantesナント。中世にはブルターニュの首都であった。今でもブルターニュ公の城があるが修復中で中にははいれない。

  その後、この町が繁栄したのは奴隷貿易だった。フランスの大河ロワール川をのぞむ一等地、フェイドー島とその周辺には冨を築いた商人たちがきそって豪華な館を建築した。それは以前奴隷制撤廃記念日を制定に書いたとおりである。

  さてフランス革命直後、ヴァンデ戦争と呼ばれる悲劇が起きた。ヴァンデのカトリック王党軍を追い詰めた国民公会議員のカリエは増加する囚人をてっとりばやく処刑する新しい方法を考えた。

  船に乗せてナントを流れるロワール川に生きたまま沈めてしまえばいいと。船に数十人を押し込めて川の中央に沈める。浮いてくるものには容赦なく銃弾があびせられた。しかも死人に洋服は無用というわけで、乗船前に衣類を剥ぎ取り売ったのだった。子供も含め総計6000人以上が溺死したと推定されている。さすがに非道な殺害方法だったので、のちにカリエ自身もギロチン刑となった。

  私はこのヴァンデ戦争の歴史を語り継ぐ2つの団体に所属しているので、この戦争の講演会や追悼式典には数十回参加している。メンバーと共に数々の旅をし、虐殺のあった現場に実際に足を運んできた。この週末はヴァンデ関連で別々の催しがあり、両方とも行くことにした。土曜日の講演会、日曜日も午前中のミサは無料なので、興味のある方は参加してほしい。ナント溺死刑の追悼式典と講演会は日曜日だ。

1)Troisième journéée d'étude sur l'Histoire militaire des guerres de vendée
L’Institut Catholique d’Etudes Supérieures (ICES) à La Roche sur Yon

2)Commémoration des ’Noyades de Nantes’
Messe en l’église Notre Dame de Bon-Port à Nantes (place du Sanitat)
Conférence au Musée Dobrée par Monsieur Thierry Piel ,
Professeur Agrégé d’Histoire de l’Université de Nantes

  虐殺があった事実を正しく認識すること、そしてそれを伝えること。こつこつと地道な努力を積み重ねている人たちがいるのである。

  

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006.06.06

プランタジネット朝とエニシダのおしえ

  プランタジネット朝la dynastie des Plantagenêt(1154-1399年)とはイギリスの王朝名。名前の由来はマメ科の植物エニシダ(planta genesta 日本名は「金雀枝」)です。アンジュー伯Geoffroy Vジェフロワ5世がこの花をこのんで帽子に挿していたことから、王朝の名前になりました。(15世紀に子孫のヨーク公リチャードが用い、その後17世紀の歴史家が使い始めました)。王朝を開いたのは息子のHenri II d'Angleterreヘンリー2世です。  
  

Geoffroy V (né en 1113 - mort le 7 septembre 1151 au Mans), comte d'Anjou et du Maine, et plus tard duc de Normandie, appelé « Geoffroy le Juste » ou « Geoffroy Plantagenet », était le fils de Foulque V, comte d'Anjou et roi de Jérusalem et d'Erembourge du Maine, héritière du Maine. Il devint le fondateur de la dynastie des Plantagenêt des rois anglais.

Genet1
  今日のお話はこのエニシダ、フランス語ではle genêtジュネと呼びます。先日Saint Yves聖イヴのパルドン祭 その1で飾られていた黄色い花です。

  この花不思議な性質があると教えてもらいました。写真では知り合いの指に隠れて少しわかりにくいのですが、つぼみを手に取って、花の下の花弁の横をそっとこすります。すると、魔法のように花が開きます。Genet2右の写真のようになります。

  野に咲く花ですからミツバチが飛んできた時にその身体に花粉をつけて、受粉してもらうしくみなのです。自然というのは何て素敵なのでしょう。この花は太陽のエネルギー、ケルトの太陽神ルーの象徴なのです。勇気とか希望のおとずれを意味します。失意の底にあっても信念をすてないこと信念を貫くことがエニシダの教えです。

  でも友達のドイツ人(農業博士)にこの話をしたら、「虫がいるから気をつけたほうがいい。さわると皮膚にくいこんでうまく取らないと頭が皮膚の中に残ってしまうから」というので、またびっくり。そんな虫のこと、聞いたことがありませんでした。「フランスとドイツと種類が同じかどうかわからないけど・・・」ということです。

| | コメント (4) | トラックバック (1)

2005.11.23

長編歴史映画 Les rois maudits 呪われし王たち

  B000BARCI2
  長編歴史映画 Les rois maudits 「呪われし王たち」がテレビ局France2で現在放映中だ。というのは、エピソードが5話(各90分)にわかれていてすでに第4話まで放映されたからだ。

  時代は14世紀。フィリップ4世が統治していたころのフランスが舞台で、イギリスとフランスはこれから百年戦争に突入してゆくところである。陰謀や裏切りが渦巻く中世。建国間もないエルサレム王国の治安維持を目的として第一回十字軍のあとで結成されたテンプル騎士団は広大な所領をヨーロッパ各地に所有し、金融業を営んで巨万の富を築く。国王フィリップ4世は、騎士団の撲滅をはかり異端の疑いありと告発する。

  残忍な宗教裁判と厳しい拷問の末、テンプル騎士団は解散を余儀なくされる。多数のメンバーが火刑になった。ジャック・ド・モレーはめらめらと燃える火に身を焼かれながら、王や迫害者たちへの呪いの言葉を残す。騎士団の所領は聖ヨハネ騎士団に移管されたが、財産の一部は王の要求により王権に移譲された。そしてジャック・ド・モレーの予言どおりに呪われた人物はひとり、またひとりと命を落としてゆく・・・ 

  Maurice Druonモーリス・ドリュオン原作でJosée Dayanジョゼ・ダヤン監督の作品。なにしろ超大作。歴史も込み入っているし、登場人物が多いのでこれは誰だったかとよく考えないとわからない。

  その核となっているのがこの写真のふたり。Robert d'Artois ロベール・ダルトワを演ずるPhilippe Torretonフィリップ・トレトンはいつも真っ赤な洋服を着ていて他のテレビ番組では「赤いフェラーリね」なんてからかわれていた。ほかにこんな服装をした登場人物はいないので、すぐに区別できる。でも髪型がいつも乱れていて、櫛をかしてあげたいなあ。

  その叔母の伯爵夫人役はJeanne Moreauジャンヌ・モロー。波乱万丈の人生を雄々しくというかしぶとく生き抜いてゆく伯爵夫人を堂々と演じている。いったい何歳なのだろうと思って調べてみると、もう77歳。おそれいりました。

  映画の装飾が中世というより、いかにも現代風。サイトには、このデザインを手がけたYann Mercierのインタビューも載っている。「ある日監督から電話がかかってきて、あなたにお願いしたいおもしろいプロジェクトがある」と言われ「これまでの中世のイメージを覆すデザイン」を依頼されたいきさつが書かれている。これは好みの問題だろうがやはり異質な感じがする。

  来週の最終回はどうなるのかドキドキしながら待っているところだ。私は楽しみにしていたのに、先週月曜日の第3話を録画し忘れた。ちょうどナントに行った日だったので思い出したのは向こうについてからだった。第3話も見たいなあ・・・

  
    Les rois maudits 関連リンク
  
  Les rois maudits 公式ホームページ フランス語
  映画の内容、キャスティング、歴史解説など充実した中身。ここで復習できるのでありがたい。ホームページからDVDにダウンロード可(有料)

  Les Rois maudits 3枚組みDVD(上記写真)


22592028292259202853  Maurice Druonの原作本 
  Les Rois maudits, Tome 1 : Le roi de fer ; La reine étranglée ; Les poisons de la couronne

  Les Rois maudits, Tome 2 : La loi des mâles ; La louve de France

 2259202861

  Les Rois maudits, Tome 3 : Le lis et le lion ; Quand un roi perd la France
 



| | コメント (2) | トラックバック (0)

2005.08.14

祭りを盛り上げる人たち

fete

  夏の間、ほとんど毎日、各地でイベントが行われていますが、その時代にあわせた装いをした人たちがいるとそれだけでお祭り気分が高まります。La Saltarelleという文化協会は1990年に設立され、中世、ルイ14世統治時代、第二帝政時代(ナポレオン3世)などの衣装を身につけ、そのころのダンスや歌を披露することを目的としています。

  Menuをクリックすれば、どんな様子なのかわかります。ブルターニュのあちこちの時代祭りに参加しているようです。名前のサルタレロとは16世紀イタリア起源の3拍子の舞曲だそうです。どんな曲なんでしょうか。聞いてみたいですね。

  写真は記事とは全く関係ないのですが昨年Dinanの祭りでみた入浴風景です。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005.07.17

教皇ピウス十二世とナチス

ida10-1

  たった今1冊の本を読み終わったばかりだ。
ローマ教皇とナチス 大澤 武男 文春新書 2004

    今年亡くなったヨハネ・パウロ二世(在位1978~2005)は第264代の教皇だったが、この本の主人公は第260代のピウス十二世(在位1939~1958、本名エウジェニオ・パチェリ)である。1876年ローマ生まれ。1899年に若干23歳で司祭になっている。第一次、第二次世界大戦のまっただなかで地上におけるキリストの代理者はどう生きたのか。読み応えがある。

  祖父、父親が俗人の教会法顧問として教皇庁に奉職していた関係もあって、18歳で司祭となることを決め、平均睡眠時間4時間、パン、水、果物中心の粗食を生涯つらぬき高潔な人格であったと伝えられるが、反ナチスの態度を変えなかった前任のピウス十一世をなだめて1933年にヒトラー内閣と政教条約を終結させ、それによって軍隊を持たないヴァティカンを守ろうとしたのだ。

  なぜならヒトラーこそ、共産主義に抗戦しうる唯一の国家元首であると評価したからである。だがナチスは罪なき人々を次々と殺戮してゆく。セルビア人、ユダヤ人、ロマ、そして非健常者の安楽死計画も明るみにでる。1941年にはドイツで抗議の声をあげた3700人の聖職者さえも強制収容所に送られた。それでもピウス十二世は沈黙したままだった。後にユダヤ人虐殺を知ってもナチスを名指しで非難しようとしなかった。

  だがヴァティカン市国の中にもユダヤ人が匿われていた事実もある。ピウス十二世もナチスの虐殺に胸を痛めていたはずだ。それに米英政府も航空撮影を行っていたにもかかわらず、アウシュヴィッツ絶滅収容所を爆撃することはなかった。もしあの時と考えたらきりがないが、ピウス十二世がナチスを容認しなければ、また早期に爆撃が行われていれば、ユダヤ人犠牲者の数は少なくなっていたことだろう。大澤さんは次のように書いている。

  

キリストが説く神の声に耳を貸さず十字架にかけて殺し、その天罰として祖国を失い放浪を続けるわずらわしい民、キリスト教の隣人愛の教えに反する高利貸によって富を築き、社会が困窮しているときにかえって私腹を肥やしている人々・・・・・ヨーロッパのキリスト教社会に潜む、こうした反ユダヤ思想が、ユダヤ人を救うための意思をキリスト教徒から奪ってしまったのである

  2002年にヨハネ・パウロ二世はヴァチカン文書館が所有する第二次大戦中のドイツ関係未公開史料を公開するよう指示したと言うが、すでに公刊されている史料集ではまだ全貌はわからない。それでもユダヤ人の強制輸送に協力した者が世界中にたくさんいるのも事実である。

  今年はアウシュビッツ強制収容所・解放60周年であった。我々にできること、それは過去を真摯に受け止め、新たな紛争を起こさないことだろう。すべての命を慈しむことを一緒に考えよう。


      参考資料

  歴代の教皇を写真いりで紹介しているすごいサイトがある。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005.06.09

クリッソン城

  ch_clisson
  クリッソン城はブルターニュ、アンジュー、ポワトゥーのちょうど交差点に位置し、中世にはブルターニュ公が拠点のひとつとしていた城である。13世紀にGuillaume de Clissonギョーム・ドゥ・クリッソンが建築、その後数世紀をかけて増築された。100年戦争のころにはDu Guesclinデュ・ゲクランも闊歩したはずだ。

    左の写真は城の全景を数キロはなれたセーブル川の対岸から撮影したもの。右の写真が歴代の領主が住まいとしていた部分である。フジェール城よりも建物の保存状態がよく、とても美しい廃墟である。フランス革命後に起きたヴァンデ戦争の折に城は焼きはらわれ、住民は惨殺されてその遺体は城にある井戸に投げ込まれた。私が訪れた時にはちょうどこの井戸の横で、地元の小学生たち30人くらいが中世の暮らしについて先生から説明を聞いていたところだった。

ch_clisson1
  クリッソンの町は人口2万人なのだが、イタリア風の建物がたくさんあってとても調和のとれたたたずまいである。中世のロマネスク教会も2つ残っている。急行列車に乗るとナントまでわずか20分。ここに住んで、ナントで働くというのは理想的ではないかと思う。私が「ここに住みたくなった」というと「たくさんの人がそう言うのよ」と観光案内所の人が笑いながら返答した。

Château de Clisson
Horaires d'ouverture : 9h à 12h et 14h à 18h tous les jours sauf le mardi,
Fermé le lundi d'octobre à mars
Fermé pendant les vacances scolaires de Noël
Tarifs : Plein : 2,20 € - Réduit : 1,5 €
Tél. : 02.40.54.02.22

Clissonの町のホームページ
2005年7月8~10日にイタリアンフェア、8月6日、7日に中世の祭りがある。

| | コメント (0) | トラックバック (0)